米津玄師《さよーならまたいつか!》(2024)の歌詞については、主題歌となったドラマ「虎に翼」とからめたりからめなかったりしながら、既にいろんな人がいろんなことを言ってるところです。
日本語警察の私が聴いて面白かったのは、副詞「はたと」「しかと」の使い方でした。端的には「はたと」「しかと」前後の語句とのつながりです。
口の中はたと血が滲んで
しかと噛みちぎる
ですよ。ね? 新しいですよね?
通じてしまえば話はこれだけです。けれどもこれだけでは嫁に通じなかったのもまた事実です。
さらにこの歌詞でツイート検索もしてみたんですが、このアングルから騒ぐアカウントは皆無、マジで0件でした。
ということで、これからしたり顔で触れてまいります。たぶん前人未到の試みです。
口の中はたと血が滲んで
「口の中はたと血が滲んで」の新しさは、
- 他人は知り得ない、当人のみが知覚できる
- 身体現象
に対して、「はたと」を使っているところにあります。新しいですね。
ひもといた辞書の中では、『大辞林 第四版』の語釈に、「はたと」に内蔵された暗黙の仕様がよく現れていました。※下線は引用者
新しい状況や考えが突然表れるさま。
うん。ですよね。そうなんです。
日本語コーパス https://nlb.ninjal.ac.jp/search/ を見ると、「はたと」に続く動詞のトップ3は
- 気がつく
- 困る
- 思い当たる
でした。どれも「考え」の仲間ですね。すべて精神現象です。
対して、「はたと」に身体現象が続く場合は、第三者が知覚できる「状況」であることが一般的です。
- メロスの足は、はたと、とまった。(太宰治「走れメロス」, 1940)
- 我れもお月さま砕くのなりとてはたと捨てつ(樋口一葉「月の夜」, 1895?)
という具合です。
「口の中はたと血が滲んで」は、そのどちらでもありません。当人のみが知覚できる身体現象と共起する「はたと」です。
ほかにもこういうタイプの「はたと」、口つながりならたとえば
はたと口内炎ができた
みたいな用例はあるのかしらと周辺を探してみたのですが、うまく見つけられなかったです。あったら教えてください。
Twitterを見ますと一例だけ、歌詞のこのくだりに疑問を呈するトーンのツイートがありました。
あれたぶん「はたと血がにじむ」と歌っていると思います。まあ、はたと血が滲むものなのかどうかは別として……。
— 北大路公子 (@kemedine) July 10, 2024
賛同できる面もありつつ、けれども「はたと」に当事者だけが知覚できる身体現象を接続できない理論的な根拠もまた、見つけられませんでした。
とはいえこの例は、語数的な制約の大きい歌詞の世界のことですから、
はたと気づいた。口の中に血が滲んでいた。
のような記述を圧縮している、といった解釈も可能ではあります。
しかと噛みちぎる
より明らかに、一段と新しいのは「しかと噛みちぎる」です。
「切断処理」を「しかと」で修飾しています。通常そこは「接着処理」じゃない?って、思いました。こんな「しかと」の使い方に出会ったのは、初めてです。「しかと」に続く語句なら、むしろ直前に出てくる「握りしめて」の方が違和感がないです。
日本語コーパスその他から「しかと」の用例をいくつか拾いますと、
- 二人はしかと抱き合う。(渡辺淳一『失楽園』,1997)
- 両手をしかと取り縋(すが)りぬ。(泉鏡花「外科室」, 1895)
- しかと見とどけたと申すものも、出て来たげでござる。(芥川龍之介「奉教人の死」, 1918)
といった具合に、何らかの意味でつながっている、あるいは接した状態に対して使うのがふつうです。ちなみに「しかと」を使って嫁が作った例文は「しかと受け止める」でした。これも接着処理です。
ビジネスシーンでの検討
ビジネスシーンでは「しかと」に遭遇した記憶がないので、ほぼ同じ意味と言える「しっかりと」に置き換えて考えてみました。
たとえば社外に出すビジネスメールの文面に、後ろに「切断処理」の仲間とつなげた
- しっかりと辞退する
- しっかりと取り消す
- しっかりと終わる
みたいな文言が入っていたら「つながり変じゃない?」と指摘するだろうなとは思います。
「しっかりと終える」ならば自然です。焦点が終了までの過程にあるからです。終わるまでは接した状態です。
しかるに、「しかと噛みちぎる」です。こんな使い方して大丈夫なのかしらんといくつか辞書をひもときますと、確認できる最も古い用例を紹介することで(私に)おなじみの日本国語大辞典が、どえらいアンサーを返してきました。
④ 十分に。完全に。よく。
[初出の実例]「次遠州之儀、兵粮然と断絶候」(出典:上杉家文書‐(永祿一二年)(1569)四月二七日・北条氏康書露状)
精選版 日本国語大辞典「確と(シカト)」|コトバンク
へ? 「初出」が思いっきり切断処理じゃないですか。ほえーっとのけぞってしまいました。
びっくりしすぎて、米沢市上杉博物館・市立米沢図書館 収蔵文化財総合データベースへアクセスして元の文書の前後も読んでしまったほどです(解読アプリの助けも借りて)。北条氏康は「遠州については、兵糧を「しかと」断ち切ったよ」と述べてると理解するしかありませんでした。
となると、16世紀後半、およそ450年前にはあったのに遅くとも100年前までには廃れてしまっていた「しかと」の用法を、2024年のいま、米津さんが復活させたことになります。すごくない?
それが意識的な所業であるかどうかは未検討ですが、どちらであっても同じ感想です。
《さよーならまたいつか!》歌詞雑感
本題から外れて、《さよーならまたいつか!》の歌詞全般に視野を広げていくつか。
「はたと」「しかと」検討の過程で前後の歌詞を読むにつれ、実に綿密に配置されているなあとの印象を持ちました。ドラマタイトルの「虎」「翼」ワードを盛り込んでいるのはむろんのこと、他にもいろんな要素が考慮されています。互いに機能し合っていて、まるで整った将棋の陣形のようです。美しいですね。
出典マニアにもうれしい仕様
それらの要素のひとつが「響きとしての面白さ」と言えましょう。
「虎に翼×米津玄師スペシャル」(2024/09/18 OA)で組まれた伊藤沙莉さんとの対談のなかで米津さんが「言葉フェチみたいなところはあると思うんです」と述べ、2番冒頭の「しぐるるやしぐるる」を例に挙げておられました。
ほかで既に指摘が出てますけれど、ここは種田山頭火の俳句「しぐるるやしぐるる山へ歩み入る」の本歌取りですね。
そこをふまえると、1番で、花が「散った」や「枯れた」じゃなくて「落ちた」なのも合点がいきます。「落ちた」にしたのはメロディーとのフィット感がたぶん第一の理由なんでしょうけどそこはおいて。落ちる花といえば、椿です。
そこも「椿の落ちる水の流れる」「笠へぽつとり椿だつた」の山頭火オマージュ?と勘ぐって楽しめます。
続いて、歌詞にはない旨をことわって米津さんの出した例が「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」の「いずくんぞ」でした。
なるほど、歌詞の「燕」は、元は燕雀の代表として登場させるつもりだったのですね。だから「気のない顔」なのかと、腑に落ちたりもしました。
ダイレクトに喚起される身体性
次に気づいた特徴は、身体現象をダイレクトに表す語句が多用されていることです。
平たく言えば、五感に訴えるフレーズが多いって話です。
「ほかに私の知る米津玄師曲」という極めて恣意的な基準で《Lemon》(2018)と比較してみると、違いがはっきりします。
Lemonの語り手ははじめからおわりまで、一貫して精神現象を語っています。
一見、五感に訴えているように思えるフレーズは2つあります。けれどもそうではありません。
- 胸に残り離れない 苦いレモンの匂い
「胸に残り」と言ってますから、これは記憶の話をしてるのであって、今ここの嗅覚を言ってるのではありません。身体現象ならそこは「鼻腔の奥」とかになるはずです。
- あれから思うように 息ができない
「思うように」できないと言ってますから、これは観念の話をしています。今ここの呼吸のあり方の描写ではなく、それに対する評価を述べているので、ここも精神現象の記述です。身体現象として息ができないなら死にますし。
どちらもいわば間接的な五感です。
《さよーならまたいつか!》は違います。
まず検討している箇所からして、身体現象をまっすぐに記述しています。
- 口の中はたと血が滲んで 空に唾を吐く
- 繋がれてた縄を握りしめて しかと噛みちぎる
ですから。触覚、味覚、さらには嗅覚さえも呼び起こされます。口のまわりだけにコーフン(口吻)しますね。エモいです。
このほかにも《さよーならまたいつか!》には、身体現象と直結したフレーズがたくさんあります。一節を入れて検索してみますと、これらのフレーズに勇気づけられている方が、それこそひと山いくらのレベルで、わんさかおみえでした。
今ここの身体感覚として表現することで、よりダイレクトに受け手の共鳴を呼ぶのかななんて、思いました。
米津さん、腕上げましたね。感服しました。何様!
100年「先」警察
《さよーならまたいつか!》の歌詞に頻出するワードが「先」です。
- 100年先(3回)
- 見上げた先(2回)
- 地獄の先(1回)
と、計6回登場します。空間・時間のどちらにも使えるので便利ではあります。
当ブログでも既に何度か触れてますが、勝俣鎮夫によれば、「サキ」を時間的な以後、未来の意味で使う用法が現れたのは、16世紀のことです。それまでの「サキ」はどれも過去の意味でした。
米津さんの「100年先」も、未来を指してます。今どきの人だなって、思いました。
まとめ
日本語警察が「口の中はたと血が滲んで」「しかと噛みちぎる」の新しさを紹介しました。
検討を通じて、自分が前例という名の縄に繋がれたまま、知らず知らず大人になったことに、気づかされました。その功績をたたえ、「シン・今年の新語2024」の特別賞を授与したい気持ちです。
100年「アト」の日本語、なかんずく「しかと」に会いたい。
しかと見届けたいものです。その時までごきげんよう、さよーならまたいつか!
おわり
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