「申し訳ない程度」、その静かなる革新性を語ろう

Twitter世間では、「申し訳ない程度」という文言の入ったツイートを毎日数例ペースで観測できます。例示すると

申し訳ない程度に咲いている桜(@sechukosan

申し訳ない程度に野菜も摂取(@jjjaj5

という具合です。

それを言うなら「申し訳程度」じゃないの?

最初は自分もそう思いました。しかしそれが、いかに浅はかであったかをすぐに思い知らされました。そこでは「申し訳ない」の「ない」に変革が起こっていたからです。

これは浅はかだった自分の反省記のような記事です。

※画像と本文は関係ありません

要約:Executive Summary

「申し訳ない程度」の「ない」に起こった「変革」を細かく書くと、次のとおりです。

  1. 現代日本語での生活において、申し訳は「ある」より「ない」方が圧倒的に多い
  2. その勢力を反映し、申し訳の「ない」領域が広がる。つまり従来の「ある」も「ない」と判定される
  3. その結果、申し訳「ない」が従来の「ある」の意味になる
  4. 日本語の「ない」は否定のほかに強調の意味も持つ
  5. 「申し訳ない」の「ない」は元来否定群に属する「ない」である。しかし、1.2.3.により強調群に移籍している
  6. よって「申し訳ない程度」は「超・申し訳程度」の意味となる
  7. 「申し訳ない程度」でヨシ!

以下、この要約のくり返しです。

「申し訳」と「ない」

申し訳

簡単に言えば、申し訳とは「言い分」です。

「申し訳程度」を念頭に、「形」や「体裁」方面からの説明をする辞書もあります。

ない

「ない」は否定を表します。

「無い」は量的議論

「ない」を漢字で書くと「無い」です。ついでに書いておくと、「無」とは量的概念です。

数量0だけが「無」ではなくて、0を超えた、測定限界未満や基準値未満の領域も「無」と呼びます。たとえば、無知な人、無節操な人は世の中にたくさんいますが、それは必ずしも彼ら彼女らの知や節操が0であることを意味しません。0を上回る絶対量を持つケースも多々あります。しかしその量の些少さゆえ「無知」「無節操」と称されるのです。ですから「無」を判定する変数をbooleanの1ビットで持つのは、時に不適切な設計となります。

「申し訳」は「ない」がデフォ

今の世の中、申し訳は「ある」より「ない」ケースの方が圧倒的です。事実、申し訳の後ろに「ある」をつなげる機会がどれほどあるでしょうか?

申し訳といえば「ない」「ありません」「ございません」ではないでしょうか。

申し訳は「ない」がデファクトスタンダードになっています。

「ある」領域への「申し訳ない」進出

「ない」がデフォルトになると、「ある」と認知されるべき領域がどんどん縮小され、ついには事実上存在しなくなります。

「申し訳ない程度」のどの用例を見ても、私には申し訳が「ある」だろうと思えます。けれども「申し訳ない程度」な人たちの判定基準は違います。そこに申し訳は「ない」のです。

私なら「ある」と判定するゾーンが「ない」と呼ばれています。

日本語「ない」の2大潮流

日本語の「ない」には否定のほかの意味もあります。

日本語、どうでしょう? 第277回 「ない」だけど「無い」わけではない(2015/08/31付)の表現を借りると「その意味を強調し、形容詞をつくる接尾語」もまた「ない」といいます。こちらの「ない」を強調群の「ない」と呼ぶことにしましょう。

たとえば「せわしない」「突拍子もない」の「ない」は強調群です。

「せわしない」は、せわしいという意味ですし、「突拍子もない」は突拍子(調子はずれ)なさまを表します。

で「ある」さまを「ない」と呼ぶわけです。

ややこしいですね。

「申し訳ない程度」に起こっていること

今一度、「申し訳ない程度」に起こっていることを再確認します。

そこでは、申し訳「ない」勢力が拡大したことで、相対的に「ある」の認定水準が爆上がりしています。その結果、旧来なら「ある」とされてしかるべき領域も「ない」と判定されています。

従来の「ある」さまを「ない」と呼ぶわけです。

なんと!これって強調群の「ない」の用法と同じじゃありませんか。びっくりですね。

「申し訳ない」の「ない」は否定群に属する「ない」ですが、強調群の「ない」へと転身を遂げています。

こんなことが実際起こるんだと、感動すら覚えました。

こうして、なにゆえに「ない」が否定と強調というほぼ正反対の意味を持てるのだろう?という、自分の積年の疑問も、ほぼ氷解しました。

「ない」余談

ところで、「ない」が否定群か強調群かを判別することは、日本語ネイティブにとっても非常に難しいです。

たとえば前掲の第277回 「ない」だけど「無い」わけではないは、あどけないの「ない」を強調群に分類しています。しかし「あどけない」があど(跡)なしやあだ(仇)なしの混交から生じたのであれば、否定群の「ない」である疑念は残ります。

否定群「ない」ソング

「学校ないし 家庭もないし」と歌う電気グルーヴ《N.O.》(1994)は、そのタイトルも示唆するように、否定群に属する「ない」歌です。

強調群の「ない」ソング候補

それに対し、松浦亜弥《Yeah! めっちゃホリディ》(2002)は、「休みない」歌です。「休み」に強調群の「ない」をつなげる用例は今のところ見つかりませんが、いつ出現しても不思議はありません。「せわしない」が「忙しい」のですから。

逆ベクトルの「とんでもない」先例

荒唐無稽な話をしているつもりはありません。なぜなら逆のベクトル、すなわち「ない」が「ない」の意味のまま「ある」形になった先例なら実在するからです。それは「とんでもない」です。

とんでもないの「ない」は否定群の「ない」です。大辞泉は、「とんでもない」の補説で

「とんでも」が単独で使われた例はなく、「とんでもない」で一語と見るのがよい。

と述べます。しかし今日びは周知のとおり、否定の意を残したまま、語幹の「とんでも」単独で使うようになってますよね。表記はカタカナの「トンデモ」が標準的です。

「トンデモ」は形の上では「ある」ですが、意味は「とんでもない」ままです。

「申し訳ない程度」はその逆で、形の上では「ない」ですが、意味は「申し訳程度」と同じ、ないしは強調群の「ない」が付くぶんだけ、強いです。

まとめ:本質的「ない」論

「申し訳ない程度」の「ない」を検討することにより、「ない」の本質的機能が「概念量の操作」にあることがわかりました。「ない」が取り扱うのはスカラー量なのでした。

それが「否定」であったり「強調」であったりするのは、ベクトルを伴ってのいわば結果論です。

世の中に存在する強調群の「ない」が、すべて否定群「ない」からこのように派生したわけでもないでしょうが、なにゆえ同形の「ない」がまるで正反対の意味となるのか、そのしくみの一端は解き明かせた気がします。

そんなところです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました