こんばんは。林修ナイトの時間です。
「あすなろラボ」でのおデブ向け授業の感想シリーズ、その11です。
要約:Executive Summary
- 生徒には「正しい場所での努力」を説きながら、自分は「間違ったダイエット」を続けている林修さんは、矛盾している。
- だが、それがいい。
1.矛盾している。
第1弾の、勉強嫌いのヤンキーたちを相手にした授業(6/9 あすなろラボ)で林さんはこう語りました。
林「でよく言うんだよ授業で。努力は裏切らないって言葉は不正確だ。
- 正しい場所で
- 正しい方向で
- 十分な量なされた
努力は裏切らない」
著書『いつやるか? 今でしょ!』でもこう述べられています。
「大した努力をしなくても勝てる場所で、努力をしなさい」
僕が授業でよく使う言葉です。 (p.167)
ところがダイエットになると、林さんは「食べないで走る」、「とても医学的にお勧めできない」方法にこだわっておられます。
今回の授業のなかでもこう話していました。
林「でしかも僕のダイエットは、何回もリバウンドしてるんですから、やり方として間違ってるんですよ。ほんとに正しいダイエットをすればですね、たぶん(略)一定になると。(略)なかなかそれはできないんで、相変わらずですね、夜抜いて、朝走ってって原始的なやり方をくり返すんです」
「やり方として間違ってる」と知っていながら「相変わらず」「くり返す」。
矛盾しています。
僕には、ダイエットに関して林さんが「間違った場所で努力している」ようにしか見えません。
林さん自身はこの点をどうとらえているのでしょう。いつか林さんとお話のできる機会があるのならば、ぜひ考えをうかがいたいなと思っています。
2.だが、それがいい。
考えをうかがう前に僕が語ってしまうのもアレですが。
矛盾しています。だが、それがいいのです。
前の記事で僕は、『一億総ツッコミ時代』(槙田雄司, 2012)を引用し、ダイエットとはツッコミ的行動の最たるものだと述べました。
「ダイエット」という自己ツッコミを、「間違った方法でやり続ける」というボケで中和させている。僕はそんなふうに感じます。
「デブが正しいダイエットをして痩せる。」という物語があったとしましょう。正しいです。しかし貧しいです。何より、どこにも救いがありません。
つね日頃から正しい場所での努力を説く林修さんが、間違ったダイエットに勤しんでいる。そこに救いがあります。
まとめ:しつこいけど、何回でも言います。
この感想シリーズで既に何度もくり返していますが、もう1回重ねます。
規格外に寛容に
デブ論の本質とは「規格外である物事に対し、どのような態度を取るか」です。
社会的レベルへ還元するなら「マイノリティとの接し方」が問われているとも言えます。
僕は規格外の物事に対して、できる限り寛容でありたいです。
だめを認める
そしてこういう言い方もできます。
ツッコミ過多な人の世は住みにくい。
ツッコミ過多な世の行き着く先は、規格外への非寛容社会、ゼロトレランス社会です。
その反対に、自分の中にあるゆるさ、だらしなさ、どうしようもなさ、そういうものを、矛盾もひっくるめてすべて認めて生きる。認めて生きて、周りからツッコミを受け倒す。そんなボケの生き方がもっともっとされていいはずです。
これは落語論の文脈になりますが、立川談志はそうした人のだめさ加減を「業」とし、「業の肯定」と言いました。「業の肯定」という言葉はその後、「業」を演じる・再現するという意味で「イリュージョン」という表現へ昇華していきます。
住みにくい所を束の間でも住みよくするために
僕はそんなボケボケの生き方をしている人、ボケボケイリュージョンを生きるファンタジスタを応援したい。少なくとも止めさせたくはない。「あんた面白いよ」「それでいいよ」と言ってあげたい。そしてかなうならば、自分もそう生きたい。
『草枕』の冒頭で、夏目漱石はこう書いています。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束(つか)の間(ま)の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。
だんだん答えが見えてきました。
人が作った人の世は、過酷で理不尽で住みにくいです。それでも僕は、人の世が少しでも住みよくなる方を目ざして生きていきます。
同じ生きるなら、おのれのだめさ加減をも他者へ開放し、多種多様なイリュージョンを生きるのを認め許し合える生き方をしたいです。
僕からは以上です。
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