踏んだり蹴ったり、踏まれたり蹴られたりでは?問題に答える。「仕様です」

踏んだり蹴ったりでヨシ!

このひと言のためにこれから千言万語を費やします。よろしければお付き合いください。

前口上

「重ね重ねひどい目にあうこと」(デジタル大辞泉)を表す慣用句「踏んだり蹴ったり」。

巷では以前から

  • それを言うなら「踏まれたり蹴られたり」じゃないの?

みたいな声があります。

さらにTwitter世間を見ると、単なる疑問や説の提示からレベルアップして、既に「踏まれたり蹴られたり」を実用に供する血気盛ん?なケースもわりと簡単に確認できます。たとえばこんな具合です。

ことここに至るまでの一連の経緯がよく整っているので引用しました。それ以上の他意はないです。

「踏まれたり蹴られたり」、論理的にはまったく正しいです。そのとおりです。ひどい目にあっているのは、踏まれたり蹴られたりする側ですからね。

けれども、踏んだり蹴ったり「される」側が「踏んだり蹴ったり」なのって、日本語の仕様なんですよね。

要約:Executive Summary

「される」側も「する」形で表す

これが日本語の仕様です。

結論から述べると、私はこの仕様と、仕様に基づいた「踏んだり蹴ったり」を支持します。

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Eddie Edwards(2012) from commons.wikimedia.org
写真と本文はあまり関係ありません

異論もある中でなぜ私が現今の「踏んだり蹴ったり」を支持するか、順に解き明かしてまいります。「踏んだり蹴ったり」をめぐる世の混迷にピリオドを打つとともに、「踏まれたり蹴られたり」派の諸氏にも途方に暮れてもらいたいです。

ひどい目に「あわせる」「あう」のグラデーション ~踏んだり蹴ったりをめぐって~

まずは諸文献をひもといて得られる客観的事実を示すことで、珍説だらけのネットの地獄に垂らす一条の蜘蛛の糸となることを目指します。

元は「あわせる」タイプだった

「踏んだり蹴ったり」は、もともとひどい目に「あわせる」側の言葉でした。

デジタルコレクションで見た1941年刊行の辞書には、こう書いてました。※下線は引用者。以下同じ

()蹈んだり蹴たり 重ね重ねつらき目にあはす

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出典:大日本国語辞典. 卷五(1941)|国立国会図書館デジタルコレクション

つらい目ひどい目に「あわせる」タイプですね。

いったん現代に戻りまして現行の辞書を見てゆきますと、私の見た中では唯一、精選版日本国語大辞典の語釈が「あわせる」派でした。

ひどい目にもあわせた上にもひどい目にあわせること、重ね重ねつらい目にあわせることのたとえ。

出典:コトバンク>精選版 日本国語大辞典「踏だり蹴たり」の解説

18世紀の用例が載っていました。引用つづき。

※浄瑠璃・信田森女占(1713)一「ふんだりけたりかみそったり重々の御ほんそう。かたじけのない片かうびん」

ひどい目に「あわせる」タイプと読んでよさそうです。説明は省きます。

「あう」タイプの台頭

けれども承知のとおり、当今はひどい目に「あう」タイプの踏んだり蹴ったりが大多数を占めます。語句の古い意味から順に載せていることで(私に)おなじみの広辞苑でも、こと「踏んだり蹴ったり」に関しては

不運や災難などが続き、さんざんな目にあうことにいう語。ふんだりけたり。
(広辞苑 第七版)

と、「あう」側からの語釈のみです。

「あう」派の出現時期の特定には至ってませんが、遅くとも100年前の大正時代には、今日と同様の「あう」タイプの用例が現れていました。

当時の新聞記事からです。漢字は現代のものに変えました。

一朝その市場が引払ふとなれば地価はドカ下り、商売の途を絶たれた上これでは問屋は踏んだり蹴つたり

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出典:中央市場設置と現存市場の運命(大阪朝日新聞 1922/08/23付)|神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫

「あう」タイプですね。問屋がひどい目にあってます。

江戸期の『柳多留』にも「あう」側の用例があるとのネット情報もありましたが、自身未確認です。

「あわせる」タイプ・再び

他方で、青空文庫収録作品を見ると数十年前までは「あわせる」タイプの用例も珍しくなかったようです。一例です。

父が例の短気を起して私をこんなに踏んだり蹴ったりしたからです。

出典:金子文子『何が私をこうさせたか――獄中手記』(親本1931)|青空文庫

この用例もそうですが、比喩表現というより、わりと文字どおりの意味にも受け取れます。

こんな具合に、ここ100年ばかりの踏んだり蹴ったり模様は、「あわせる」「あう」のグラデーションとなっています。

「あう」派が濃厚な昨今の基準からすると奇妙に映るかもしれませんが、先ほど見た「あわせる」タイプだけに触れた古今の辞書にも一定の理があるわけです。

YES!「される」側でも「踏んだり蹴ったり」賛成論

ここからは自説込みの日本語マンスプレイニングです。

「される」側をしばしば「する」形で表す

これが日本語の仕様です。

ですので踏んだり蹴ったり「される」側も、「踏んだり蹴ったり」と表せます。仕様です。

なんでそんな仕様となっているのでしょうか。思うに、その背景に日本語が持つ次の性質が関わっているためです。

  • 「される」側を表す語彙・表現が総じて貧弱
  • エンティティ間の関係記述に関心が薄い

因果と呼べるほどの強い原因と結果の関係でないにしても、ゆるゆると影響しあっている気はいたします。

逆から順に述べてゆきます。

関係に関心の薄い日本語

日常使っててたびたび感じるんですけど、日本語って、エンティティ間の関係記述にとっても関心が薄い言語ですよね。語形だけでは、その言い回しに登場する要素同士がどんな関係なのか、まるで判断がつかないことがしょっちゅうです。

たとえば「凧揚げ」で揚げるのは凧ですが、「釜揚げ」で揚げるのは釜じゃありません。

という具合に、関係が違うのに語形が同じケースがいくらでもあります。

ただ外国語にも同種の事例はあるでしょう。英語由来のマスク(mask)を例に取ると、アイマスク、ガスマスク、デスマスクとでは、マスクと前に付いた○○との関係はそれぞれ違います。

けれども、日本語は相対的に判別困難なエリアが広い気がしています。データの裏付けはないのでこれぐらいで。

貧弱な日本語の「される」ワールド

関係記述に関心が薄く無頓着な結果なのでしょうか、日本語は総じて「される」側を表す語彙も表現も貧弱です。

まずは語彙です。むろん日本語にも、動詞や助動詞の活用に受け身の形はあります。けれどもそれが名詞化して、さらに辞書に載るレベルとなるとぐっと数が減ります。

手元の辞書アプリ(三省堂国語辞典 第七版)をサーチしても

  • 憎まれっ子
  • 虫刺され
  • 雇われ
  • 笑われ者

ぐらいしか見つけられませんでした。探し方が下手なんですかね。気になった方のために付け加えておきますと、NTRはありませんでした。にしても貧弱です。

次に表現です。だいたい代表の「される」が既にやばい。

「される」は単に受け身だけでなく尊敬の意味も持てますし、さらに「れる」「られる」の形なら可能の意味にもなれます。この事実だけでも、関係記述の点から見た日本語の「される」ワールドの貧弱ぶりを表すのに十分ではないでしょうか。なんでもやらなきゃならない零細企業の従業員みたいなもんです。ちと違うか。

たとえば同じ語形であっても、

  • 癒やされましたか?

ならまだ受け身に取りやすいですが、

  • 投げられましたか?

を初手から受け身に取るのは難しいですよね。

一例として、投げられましたか?の意味を「取りやすい」順に並べてみます。ソース俺のため個人差はあるかもしれません。返答の例もつけます。

投げられましたか? の解釈と答え方の例

  1. 敬語表現と取る。「え、何を?さじ?」
  2. 可能表現と取る。「いいえ。素人にハンマーは無理でした」
  3. 受け身形に取る。「え、何が?賽?」

このように、「される」形が受け身以外の意味も表せるため、形だけからは文意を決めきれないケースがよくあります。その場合、取りやすい意味に取るしかありませんし、受け身以外が優先されることもしばしばです。貧弱ですね。

厄介事でもある

加えて日本語の「される」形は、さらに厄介な性質を持ちます。それは、暗に「よくないこと」「困ったこと」「迷惑な事態」のニュアンスも帯びてしまうことです。

そのためシンプルに関係だけを述べたいときに、現実問題として「される」形が使いづらくなってしまっています。余計な情報がくっついてしまうからです。

例文です。実際に今月(2021年9月)、アパート住まいの私の身に起こった出来事です。

  • 新しい住人が隣に入居した

この事実を、「される」形の

  • 新しい住人に隣に入居された

と書き換えるとどうでしょうか。実際に私自身、それを特にどうも思っていないにもかかわらず「内心イヤだなと思っている」と受け取る人も出てくるのではないでしょうか。

同様に「家に来られた」を例に考えてみましょう。

来られた相手が借金取りやセールスや宗教の勧誘なら「家に来られた」で全然OKです。一般に、それらの用件は迷惑であることが大半だからです。

しかし親しい間柄の友人や恋人に対して「家に来られた」は使いづらくはないでしょうか。親友や恋人が家に来ることは一般に迷惑ではなく、むしろウェルカムな場合も十二分にあるからです。

もし誰かが

  • 親友/恋人に家に来られた

と言ったり書いたりしたとき、そこには相手になにか心配をかけた的な事情があることが示唆されます。たとえば病気や事故のためにしばらく音信不通にしてしまっていた、だとか。

という具合に、語彙も表現も、日本語の「される」形は端的な事実関係を表す観点から評価すると大変に貧弱です。平たく言えば「向いてない」のです。

別の言い方をすると、日本語の「される」形というのは、数々のしがらみから使えるシーンがいろいろと限定されてしまっているわけです。

つまり日本語という名の世界は、その構造上あらゆる事態を「する」「される」の両側から公平に言い表せるようにはなっておらず、「する」「される」の関係は統語法的に非対称なのです。

それが、「される」側も「する」形で表す仕様が生まれた背景だと考えます。

この両者がどういう具合に非対称なのか、さらに話は続きますが当記事ではここまで。

まとめ:「踏まれたり蹴られたり」勢への檄文

慣用句の「踏んだり蹴ったり」に対して

  • 「される」側を「する」形で言い表すのは矛盾している
  • 事実関係どおりの「踏まれたり蹴られたり」が妥当な形だ
  • 「仕様です」というが、それは是正すべき変な仕様だ

そうした主張も成り立ちはします。しかし当記事で述べたとおり、その「仕様変更」に少なくとも私は賛成しかねます。

「ひどい経験が重なるようす」(三省堂国語辞典 第七版)を指して「踏まれたり蹴られたり」ではなく「踏んだり蹴ったり」と言い表す日本語の仕様が仕様としておかしいかっていうと、一概にそうも言い切れないからです。

ですから単に「踏んだり蹴ったり」を「踏まれたり蹴られたり」に言い換えてそれでヨシとするつもりなら、まったく感心しません。

なぜならそれは部分最適にすぎず、その「踏まれたり蹴られたり」の論理のまま進むなら、日本語の仕様に潜むさらなる論理的不整合を顕在化させ、果ては大改造を迫られる事態ともなりうるからです。

そして今の、また未来の日本語使いたちに「踏まれたり蹴られたり」の論理を押し進めて日本語の大改造にふみきるだけの覚悟があるかっていうと、私はないと思っています。

なのでひとつ前の記事で取り締まっておきました。

「踏まれたり蹴られたり」警察、ワクチンで秋の一斉検挙の巻【Tweetまとめ2021】
日本語警察が、Twitter世間の「踏まれたり蹴られたり」勢の覚悟を問います。 9月中旬の約2週間内偵を重ね、本日ここに一斉検挙の運びとなりました。

いろいろな要因どうしの力加減でこういうことになってるんで、違和感あるのもわかりますが「踏んだり蹴ったり」でいいんじゃないですか?

これが私の見解です。

踏んだり蹴ったりでヨシ!

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おわり

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