一人で歌っても「斉唱」記念講演【後編】

一人で歌っても「斉唱」ですか?

はい。一人で歌っても「斉唱」です。

人民よ、「一人で斉唱」警察どもを追い返せ!【前編】
右や左の日本語警察のダンナ、 もう、「一人で斉唱」認めていいんじゃないですかね。 「国歌斉唱するMISIA」 これが一般人民のリアルな言語感覚なのですから。
国語の神様(ウソ)が「一人で斉唱」を認めた!その論理とは?【中編】
私は、この世界の現実を直視しました。そして、「一人で斉唱」を認めるに至りました。 彼ら彼女らがある歌い方を「斉唱」と判定する条件は、歌うそのシチュエーションであって、歌う人数はビタ一文関係ありません。

以上の前編と中編でだいたい主張は出し尽くした気もしますが、論拠をもう少しだけ詳しく述べてシリーズを締めくくります。

要約:Executive Summary

斉唱ビフォーアフターを象徴的に表すと、こうなります。

1941年の斉唱

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小磯良平「斉唱」(1941)|兵庫県立美術館 より

2021年の斉唱

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【特選】MISIAさんによる「国歌斉唱」 TOKYO2020開会式|gorin.jp より

2021年は「斉唱」の多様性と共生の年として、後世に記憶されるでしょう(されない)。

解説

一般人は「ミュージックピープル」と「非ミュージックピープル」に大別できます。長いので、以後前者をMP、後者をnon-MPと表します。

MPとnon-MPでは、歌い方を表す語彙も判定メソッドも、実装が違います。

MPの「歌い方判定メソッド」はテクニカルです。

MPの判定メソッドには、パラメータが{int歌う人数, int同一時点に鳴る旋律の音階数, bln旋律の時刻同期}の主に3つあって、その値の組み合わせにより、戻り値が次のようになります(バリデーションとエラー処理は省略)。

  • 独唱{intPerson=1, intMelody=1, blnTimeSync=default}
  • 斉唱{intPerson=n, intMelody=1, blnTimeSync=True}n>1
  • 輪唱{intPerson=n, intMelody=1, blnTimeSync=False}n>1
  • 重唱{intPerson=n, intMelody=n, blnTimeSync=default}n>1
  • 合唱{intPerson=n, intMelody=m, blnTimeSync=default}n>1, n>m

non-MPは、こんな判定メソッドなど持っていません。

non-MPの「歌い方判定メソッド」仕様をあえて書くなら、戻り値と引数の組み合わせはこんな感じでしょうね。

  • 斉唱{式典で歌う}
  • 合唱{みんなで歌う}
  • null{それ以外}

non-MPの「歌い方」を表す語彙力は、こんなもんです。

では一般に「歌い方」について、MPの判定メソッドだけが正しくnon-MPの判定メソッドは誤りなのでしょうか。

そう判定することこそが、誤りです。

たとえば同じ甲子園球場でみんなが歌っても、高校野球の全国大会出場校の校歌なら「斉唱」ですし、《六甲おろし》なら「合唱」です。これはこれで理に適った区分です。

MPのテクニカルな判定メソッドならどちらも斉唱のはずなので、後者が斉唱でもOKです。けれども一般には合唱がMPのいう斉唱の一部領域もカバーしています。

ノンミュージックピープルの斉唱を探る

Twitter検索で斉唱の使われ方を探していると、

と、同じ一人、いやひと悪魔が歌っても、曲目によって歌い方のワードが変わる例が見つかりました。そこでnon-MP層が斉唱をどうとらえているかを知るため、国歌でも校歌でもない「斉唱」の用例を探してみました。

歌う人と曲目によって、斉唱を選んでいそうです。

明らかに一人でも、この場面でこの歌い方なら「斉唱」となるようです。

《火山灰》はHKT48のレパートリーらしいです。ここで実際に歌った人数は定かでないですが、開会なので「斉唱」を使っていると解せます。

これらの用例から還元したのが先述の「non-MPの歌い方判定メソッド」です。

ノンミュージックピープル寄りのツイート集

探してみると、少数ながら私の論旨に近い発信をしているツイートも既にありました。

少なくとも、MPと異なる論理で動くnon-MPの実在は主張できます。

自身がMPなのもあって、これまでこうした発信が見えていませんでした。そこは反省すべき点です。

校閲、その罪と罰

「一人で斉唱」を取り締まり、こうした不毛な訂正の裏で暗躍する日本語警察や日本語自警団の方々、あるいは

とモヤモヤしている一般の方に向けて、私がなぜ「一人で斉唱」を認めるに至ったかを述べてゆきます。

あるある1個あるんで、椎名林檎さんの《罪と罰》にのせて「校閲あるある」を言います。

罪と罰(2000)
椎名林檎
¥255

♪ふぉーーーをすゎすう~ぅわさのやまてどぅお~りぃーー
校閲あるある言いたぁあぁーい

♪あたしの名前をちゃんと呼んで

名前ってたくさん知っているに越したことはないけど、知らなくても日常生活に大して支障は起こりません。

突然ですが「名前を呼んで」クイズです。

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視力検査のアレです。呼んであげてください。「上」じゃないですよ。

4方向ないし8方向のどこかが欠けた、この図形の名前です。

呼んであげてください。


そして名前そのものに加え、名前の「解像度」が低くてもさして支障は出ません。

たとえば、もう解散してしまいましたが「SMAP」です。SMAPの知名度は「国民的」と言っていいレベルでした。それでもSMAPが何の略か知る人が、SMAPを知る国民のうちどれぐらいいたでしょうか。悪くいえば、そんなことを知っているのは変な人です。

♪必要なのは 是だけ 認めて

何割かの一般人にとって、国歌や校歌の歌い方は「斉唱」1つで十分間に合ってるんですよね。

そんなことでいいのかと思ってしまったら、ミュージックピープルの資格がありそうです。

そんなMPの救急車やタンポポはいったい何種類なのかなって話でもあります。

♪あたしが望んだあるある

矛盾を優に超えて

一番愛しい 校閲 あるある 辞書に頼りがち~


以上前半でした。後半は舞台をスイッチ。

一人で歌っても「斉唱」記念講演・要旨

国語の神様(ウソ)の講演からダイジェストします。

  • 辞書は世界の後を追う
  • 辞書には変なことも書いてある
  • 人が何かの名前を知るとき、辞書が介在するケースの方がずっと少ない
  • 名前の「解像度」は、コミュニティやそこに属する人それぞれである

これらの事実から「一人で歌っても斉唱か?」の答えはYESです。

国語の神様(ウソ)講演ダイジェスト

国語の神様を騙った講演録の文体でつづります。細部に嘘を混ぜ込みますが、根幹の部分はすべて本当です。文責はヤシロにあります。


ただ今ご紹介いただきましたヤシロ一春彦でございます。

初めての方は、回転寿司チェーンかとお思いになるようですが、引っぱってある棒は漢数字の「一」でございまして、ヤシロイチと読みます。

ヤシロイチといいますとしばしば「辞書を作ってるのですか?」と聞かれることもございますが、ふだん時給でソフトウェアのテストをしております。それがどういうわけか、この立派なインターネットで1時間ばかりしゃべれということでございます。

いろいろなケースを示しながら、「一人で斉唱」をめぐる校閲の罪と罰を申し述べてみたいので、しばらくお付き合いお願い申し上げます。

辞書は世界の後を追う

辞書は世界の後を追う存在です。世界の先頭に立つことはありません。辞書がどうできあがるかを考えますと、それが宿命と言いますか、そういうものです。

わかりやすく表れているのは、昨今ですと「コロナ」でしょうか。

広辞苑 第七版でコロナを引きますと、こう書いてあります。

太陽大気の外層。皆既(かいき)日食の際、太陽の縁から四方にぼやけて見える真珠色の淡光。

2021年のいま、この意味でコロナを使っている人は希少種です。辞書が置いてゆかれてますね。

見た中では辛うじて?デジタル大辞泉が2番目の語釈として

⇒コロナウイルス、特に新型コロナウイルス、また、その感染症COVID-19の略。

デジタル大辞泉「コロナ」の解説

を挙げてます。

広辞苑も続けてみると「コロナウイルス」の項も並んでいるのでそこはフォローしときます。

辞書には変なことも書いてある

校閲あるある「辞書に頼りがち」

辞書はいわば「参考書」です。大いに助けとなることも確かですが、それでも教科書ではないし、ましてや聖典でもありません。

この世の「斉唱」の現実が乖離するなら、疑うのは辞書の方です。辞書の「斉唱」を不磨の大典のごとく尊ぶのはばかげています。

辞書には変なことも書いてある その人数をめぐって

うかつでテキトーでいいかげんな一般人と違い、辞書を編む人は、一般人の及ばないレベルで慎重に緻密に念入りに辞書をつくっているはずです。

それでも変なことは混ざります。人数に関して私の知る例に「爆笑」と「漫才」があります。

爆笑

  • 1930年代に生まれた当初から何人でもよかった
  • 1950年代半ばからいくつかの辞書がうっかり「大勢で」としてしまった
  • 一部の一般人がうっかりな辞書を見てうっかり真に受けてしまった
  • 2010年代後半より、辞書が自らの過去のうっかりを認め、訂正しだした ←いまココ

漫才

  • 1930年代にワードが生まれた当初から2人がスタンダードだが、それ以上でもよかった
  • 大部分の辞書がうっかり「二人」としている
  • 一般人は辞書を見ないので特に悪影響はない。「3人なら漫才じゃない」とか言わない

国語辞典たちによるこのうっかりは前に別の記事に書きました。詳しくはそちらで。

国語辞典たちが「漫才」に課すムダ条件、「二人」
手元で見られる国語辞典すべてで、「漫才」は「二人」と指定されていました。 え?と思ってさらに他を探しても、どれも「二人」でした。 国語辞典業界の「漫才」って「おふたりさま限定」なの?

斉唱

同様に斉唱をめぐる状況をまとめます。

  • 明治期より「そろって声を出す」応用分野として、歌い方も音読の用例もあった
  • 辞書もMPの使い方にならい「2人以上」とした

爆笑や漫才のケースと違いここまでうっかりの瑕疵はありません。違うのはここからです。

  • 一般人は辞書を見ないので、式典のような場で厳かに歌うことをその人数に関係なく「斉唱」だと思って使う

それはそれで筋が通るので、ありです。

「斉唱」発信はミュージックピープルばかり

「斉唱」に関する発信はミュージックピープル側からのものばかり目立ちます。以後「MP」と呼びます。同じ意味です。

国歌を「斉唱」か「独唱」か
東京オリンピックの開会式で君が代を歌ったMISIAさん。「国歌を斉唱」と決まり文句のように言ってしまいがちですが、斉唱は「同一旋律を二人以上でうたうこと」(広辞苑)。歌手が1人で歌うような場合は「独唱」になるので、「斉唱」とは言えません。

国歌を「斉唱」か「独唱」か|毎日ことば(2021/07/24付)

この問いの立て方が、既にMP発想です。「斉唱」と「独唱」が独立した関係なのはMPの世界だけです。MPの場合、ある歌い方が「斉唱」ならそれは「独唱」ではありませんし、逆もまた同じです。

しかしnon-MPの場合は違います。「斉唱」と「独唱」の両者は互いに排除し合う関係ではなく、重なる領域があります。よって一人でも式典で歌えば「斉唱」です。判定メソッドの実装がそうなっているからです。

だからMPから「それは斉唱じゃなくて独唱」と言われても、non-MPには半分何言ってるかわかりません。「独唱」も見聞きすればその意味はわかりますが、ふだん使う語彙に入ってません。「歌い方判定」結果からは出てこないワードです。

このあたりを探してみると、MP寄りながらもゆれるおじさん心を吐露する記事もありました。

日本語、どうでしょう?:ジャパンナレッジ~一人で歌うのも「斉唱」?~
「国歌斉唱」とは本来一人で歌うもの? みんなで歌うもの?

一人で歌うのも「斉唱」?|日本語、どうでしょう?(2020/05/25付)

「勝手な想像だが、」と断ったうえで

斉唱=代表者が一人で歌うという意味に捉えられてしまったのではなかろうか。

としています。この想像も、人数に縛られたMP発想です。旧来の「斉唱」に人数の指定があるのをなまじ知っていると、なかなかそこから離れられない証左かもしれません。

non-MPのごとく、人数のことははなから念頭に置かない方が、シンプルに組み立てられます。

母国語の語彙を、人はどうやって獲得してゆくのか?という問題を考えれば、それがわかります。

人が何かの名前を知るとき、辞書が介在するケースの方がずっと少ない

人が何かの名前を知るときは、辞書が介在するケースの方がずっと少ないですね。近年の例を1つ挙げますと、マリトッツォです。

ケーススタディ:マリトッツォ

先日こんなツイートがバズっていました。

私がいつも昼食を買うスーパーにも、これと同じものが売ってます。なのでこの「マリトッツォ(たまご)」の存在は知っておりました。登場したのはけっこう最近です。7月入ってからじゃないですかね。

ただ私自身、このツイートの主張を肯定も否定もできません。

マリトッツォに対する私の認知は、今のところ「何やらそう呼ばれている何ものかがある」レベルで、自分自身のマリトッツォ像がホイップクリーム並みにふわふわしているからです。

なのでどういう事情でこのツイートのシェア数がここまで伸びているのか読み切れない面もあります。

もし、一般人の相当数が既に何らかのマリトッツォ像を持っており、この「マリトッツォ(たまご)」がそれに外れていると判定しての結果だとしたら、いささか不思議な感じもいたします。

であるならば、みんなの「マリトッツォ」判定メソッドってそんな簡単に実装できたの?って驚きの方が大きいです。

ちなみに2021年8月現在、コトバンクで「マリトッツォ」を検索するとヒットするのは「伊和中辞典 2版の解説」だけです。興味深いのでまるごと引用します。

maritòzzo [名](男)マリトッツォ(干しブドウ入り菓子パン).

私のふわふわのマリトッツォ像とも、先述のツイートをシェアした一般人たちのそれとも、ちょっと違う気がします。

ケーススタディ:漫才

私も幼き頃より、面白かったり面白くなかったりする「漫才」と呼ばれる何事かを主にテレビで見てきました。B&B、ダウンタウン、笑い飯、ジャルジャルらによる、それまでの漫才像を革新する漫才ネタもいくつか思い出せます。

さて、誕生以来およそ90年を経るうちにいくつかの革新を重ねてきた漫才にもなお、厳然として存在するのが「おひとりさまの壁」です。事実、M-1グランプリ2021の出場資格が「1名(ピン)での出場は不可」となっています。

なぜ、ピンでやる何事かは漫才じゃないんでしょう。ピン芸人のうち、たとえばいっこく堂さんや陣内智則さんの一部のネタって、かなり漫才っぽい気もするんですが、それらとて漫才と呼ばれる気配はまるで感じません。

また2人の場合でも、矢野顕子さんと上原ひろみさんが組んだピアノ演奏など、MPの私にはM-1グランプリの決勝に出てきてもおかしくないぐらい、それこそ2019年グランプリのミルクボーイによる「コーンフレーク」と「最中」ネタに匹敵するほどに面白い話芸かつ漫才なんですが、これまでそう訴えてもさほど賛同は得られませんでした。

参考動画

名前の「解像度」は、コミュニティやそこに属する人それぞれである

母国語語彙の獲得の話を、ここでは目いっぱい簡単に「名前を知る」という話に置き換えて進めます。

名前の解像度「視力検査のアレ」

先述の視力検査のアレです。

私自身がこの図形の名前を覚えたのは高校生の頃です。何年生だったか忘れましたが、保健委員のときに身体測定で同級生の視力を測る係になりまして「測り方マニュアル」みたいなとこに書いてました。あ、コレってそういう名前なのねとなったのを覚えています。

もし世の中に「視力検査クイズ」ってジャンルがあったら、レベル1の基本問題でしょう。でも知らなくても「視力検査のアレ」ですみます。

蛇足ながらこれには前日談がありまして、高校生のその時まで「ランドルばん」だと思ってました。「ばん」は「板」「盤」のどちらかです。ですから正確には「その図形が書いてあるモノ」を「ランドルばん」と呼ぶんだと思ってました。

小学生の頃、給食と午後の授業のあいだに「目の体操」の時間がありました。校庭のネットに、視力検査のアレを書いた大きなボードが何個かくくりつけてあって、ゴセックの「ガボット」のメロディーに合わせて、遠くの景色とそれを交互に見るよう放送が鳴ってました。

ゴセックのガボット(ゴセック)
リズ・モートン
¥153

放送では「遠くの景色を見ましょう」「ランドルばんを見ましょう」って聞こえてたんで。知らない言葉は聞き取れない一例かもしれません。

このエピソードに、辞書は一切介在しません。

名前の解像度・「救急車」篇

ところで、

  • あなたは救急車を見たことがありますか?

日本に暮らして日本語ができる人なら、たぶん誰でも「はい/いいえ」で答えられるし、答えられる全員の答えはたぶん「はい」でしょう。

ではここにひと言加えて、難易度を1000倍に、すなわち、1000人に1人が答えられるかの難問にしてみてください。

やり方は他にもあるでしょうが、救急車の「解像度」を上げるといいんです。

たとえば

  • あなたは三菱自動車の救急車を見たことがありますか?

みたいに。

こう問われると、私自身の答えも「わからない」です。私にとって救急車は「救急車」の1つであり、その解像度で救急車を見てないからです。そもそも「三菱自動車の救急車」が実在するかも知りません。

「一人で歌っても斉唱か?」を考えているうち、以前見かけたこちらのツイートを思い出しました。

このエピソードがツイート主の実際に目撃した光景かあるいは想像の産物か、そこはさておいて、先日来、救急車が通りかかるとよーく見てみることにしたんですね。

で私の住んでる町の救急車と、となり町の救急車と、どうも別の種類みたいだというとこまではわかりました。でもそれがトヨタのハイメディックか、日産のパラメディックか、はたまたそれ以外なのかまではまるで識別できてません。

名前の解像度・「タンポポ」篇

歌い方と救急車のどちらにも詳しい珍奇な人もまれにいそうなので、もう1つだけ用意しておきます。「タンポポ」です。

あなたのタンポポは何種類ですか?

少し詳しい方だと、タンポポに大きく2種類あることは知っていそうですね。ご存知の方はいますでしょうか?

はい? 川村と白鳥?

それもたんぽぽですが、私が言っているのは花のある方のタンポポです。

タンポポは、日本タンポポと西洋タンポポの2つに大別できます。ただ知識としては知っているものの、実地でこれはどっちと判別できる能力はないです。

どうやって見分けるんだろうかと探して見つけた、西日本のタンポポの分類と分布徳島県立博物館 植物担当学芸員 小川誠(2011)を見てみますと、なんと16種類もありました。

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西日本のタンポポの頭花より

16種類全部集めたら、タンポポだけで十六茶つくれます。

ともかく一般人からすれば、16種類のタンポポを区別するのは、間違いなく変な人でしょうね。

まとめ

「斉唱」含めて歌い方を細かく区分するのはMPのみに通用する作法ですし、「斉唱」の人数を「2名様から」に制約する「おひとりさまの壁」も、「漫才」のケースよりもはるかにもろかった。簡潔にまとめればそういう話です。

焼肉、カラオケ、ゴルフコースにキャンプ場、温泉旅館からラブホテルまで、今や「おひとりさま」のマーケットは拡大の一途をたどっています。

斉唱も、時と場合によってはおひとりさまが成り立つのでした。

参考文献

ここらの論点を下敷きにしています。

・[PDF]金田一春彦「日本文化と日本語(学術講演)」|神戸大学医学部神緑会学術誌,8:44-55(1992)

講演の文体はここからパクりました。

・ケネス・J・ガーゲン、メアリー・ガーゲン『現実はいつも対話から生まれる』(2018)

「社会構成主義入門」(帯より)。ガイドブックとなる位置づけの1冊です。

私たちが「現実だ」と思っていることはすべて「社会的に構成されたもの」

そこにいる人たちが、「そうだ」と「合意」して初めて、それは「リアルになる」

その説明が「正確」かどうかは、「共通の伝統」にかかっている

もうここまで考えている人がいたんですね。自己史上最多のマーカー引きました。

・レイザーラモンRG『人生はあるあるである』(2016)

あるあるのフォーマットを現行のスタイルに確立させた人物の著書です。

人と人がいたらそこにはあるあるは絶対存在する。(略)「自分だけであるあるを見つけよう」と思っていた時期から、「人からもらおう」と思うようになった時、すごくラクになった。さらに、あるあるのステージが一段上がった気がした。(p.150)

人に任せて、人と一緒にそのアイディアを育てていくことが、結果的には自分のためにもなるのではないかと思う。(pp.151-152)

すごく、社会構成主義的な考え方です。

・渡辺裕『歌う国民』(2010)

音楽を《「国民づくり」のツール》とした切り口が新鮮でした。《君が代》も当然にその1つです。

「皆で歌う」こととコミュニティ形成との関わりという問題自体、西洋の近代社会の音楽文化に由来しているということです。
(第二章「唱歌」の文化)

そもそも国歌を作って皆で合唱し、帰属意識を高めるという発想自体を取り入れることによって、非西洋圏の各国は近代国家の仲間入りをしていったのです。
(第二章「唱歌」の文化)

おもしろいことに欧米諸国の場合には、その学校だけの固有の校歌があるケース、しかもそれが学校当局の手によって公的に制定されているというようなケースはほとんど見かけません。言ってみれば、この「校歌」という存在は、西洋的な「コミュニティ・ソング」が独特の「日本化」を遂げた結果として生まれたものなのです。
(第五章 校歌をめぐるコンテクストの変容)

ほんとですか?という話も随所に現れ、かなりスリリングな1冊でした。

最後に《信濃の国》歌いがち。

唐突な長野県民あるあるでお別れです。

YouTube「未来へつながるコーラスリレー」信濃の国50周年記念ムービー(2019/02/10付)

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田中武「斉唱 ~神7の唄~」(2017)|takeshi-tanaka.net より

おわり

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