筑波大学、国立国語研究所、Lago 言語研究所『NINJAL-LWP for TWC』、通称「筑波ウェブコーパス」のデータも借りて考えます。
以下単に「コーパス」とします。
「人流」へのよくある拒否反応に、「人をモノ扱いしている」があります。
なにゆえに「モノ扱い」と感じるのかを考えます。
粗いのでそのつもりで。
※写真と本文は関係ありません
モノ語彙の発見
日本語には、もっぱら人以外の何かに使う言葉があります。
たとえば、「積む」。
コーパスによる「…を積む」のトップ10は次のとおりです。
- 経験を
- キャリアを
- 研鑽を
- 修行を
- 実績を
- トレーニングを
- 荷物を
- 練習を
- 訓練を
- 体験を
人の活動やその結果を表す言葉が並びます。7位の「荷物」は、はっきりモノです。
こういうタイプの言葉を「モノ語彙」と呼ぶことにします。
「人以外の何か」の集合を「モノ」一語に集約してしまうとこぼれ落ちる部分もありますが、いい対案もないので、モノと呼びます。にんげんだもの。
モノ語彙と人の不幸な出会い
モノ語彙を人に使うと、何が起こるか。
最も簡潔に言うと、炎上します。
たとえば『読売新聞 用字用語の手引 第5版』はこう指南します。
積み残し客 人間を荷物扱いする感じがあるので、「乗り切れない客」などとする。
(p.396)
いらぬトラブルを避けるノウハウに思います。
最近の炎上事案から
直近ではこんな炎上事案もありました。
河野太郎氏は「いかに母子世帯の発生を抑えるか」と言った。
母子家庭はカビではない。私も母子家庭で育った。https://t.co/msjk5IIguB
— 阿部岳 / ABE Takashi (@ABETakashiOki) May 17, 2021
ソースは琉球新報のインタビュー記事らしいのですが、会員限定なので全文は未確認です。
コーパスによる「…の発生」のトップ10は次のとおりです。
- 事故の
- 地震の
- 災害の
- 癌の
- 大震災の
- 障害の
- 事件の
- 黴の
- 損害の
- 被害の
「カビ」は第8位にランクインしています。
「発生」は、望ましくない事態の出来を示す「モノ語彙」と言えそうです。ただし付言しておくと、25位に「患者の発生」も入っていました。
一方、母子家庭は人(の集団)に使う言葉です。もっぱら人に使う言葉が属する集合を「ヒト語彙」と呼ぶことにします。
モノ語彙とヒト語彙のコンフリクトが、不和を呼ぶ源となっていそうです。
古典的事例
この種のコンフリクトを生じた古典的事例として今なお参照されるのは、2007年の「産む機械」でしょうか。主な経緯は、Wikipedia「柳澤伯夫」の「産む機械」発言報道を参照してください。
コーパスでは「産む」も「生む」の項に統一されていました。
「…が生む」のトップ10です。()内の例示は中から適当にピックアップしました。
- ことが
- 女性が
- それが
- 【地域】が (例:福岡が生んだ)
- 【人名】が (例:堀井雄二が生んだ)
- 自分が
- 【一般】が (例:トイプードルが)
- 私が
- これが
- 人が
1位の「ことが」は、「~~ことが○○を生む」という形での用例の合計なので、実質1位は女性です。
「生む」「産む」はヒト語彙です。
蛇足ながら、コーパスの【地域】【人名】【一般】の用例を見ますと、それこっちでは?みたいなパターンがいくつもあって、三者の分類に関しては、まだまだ精度の面で改善の余地がありそうでした。
話を戻しますと、日本語警察からすれば「女性を機械扱いした」は叙述としてやや不正確です。日本語警察学的見地からは、「産む機械」発言の(当時はまだ一般的でなかったワードですが)“炎上”は、ヒト語彙「産む」とモノ語彙「機械」「装置」の衝突によって発生したもの、となります。
ヒトでもモノでもない語彙、ヒトに寄せる説
脇道にあたる部分も少し考えます。
先ほど「産む」をヒト語彙に分類しました。けれども犬も鳥もカエルも産む存在なわけで、決して「産む」はヒト専用でないはずです。
面白いのは、人以外の「産む」存在とは、だいたい当記事の冒頭で「人以外の何か」を「モノ」に集約させた際、こぼれ落ちた部分にあたることです。そこからすると、どうも日本語は「人」でも「モノ」でもない存在を人の側に寄せてとらえる傾向があると言えそうです。
なぜ「人流」はモノ扱いなのか?
さて、人流です。
「人流」に違和感を示す代表的な言い分に、「人をモノ扱いしている」があります。
「物流」と同じく、モノ語彙とみなされているわけですね。しかし、どうしてでしょうか。
「人」は、はっきりヒト語彙です。なのに「人流」はモノ扱いだと。
「人影」「人体」は、人をモノ扱いしているか?
手元の国語辞典から物○ と 人○ のペアになる語を拾ってみました。
- 物影 と 人影
- 物体 と 人体
がありました。人影も人体も、人をモノ扱いしている感じはしません。
感性は人それぞれなのを軽視した安易な結論かもしれませんが、もし人影や人体を「人をモノ扱いしている」と主張する人がいたら、かなりの変わり者に思えます。
ということは「影」も「体」もヒト語彙なんでしょう。
他方で「人流」をモノ語彙と感じるということは、「流」の側に人流トータルをモノ語彙に染めるだけの力があるという話になります。
「流」がモノ語彙となる条件
ならば「流」はモノ語彙なのでしょうか。
自分流に考えてみました。必ずしもそうは思いませんでした。
たとえば将棋のプロ棋士には、「○○流」の愛称を持つ人がいます。これはモノ扱いなのでしょうか。
あるいは、人はよく大谷翔平選手のことを「二刀流」と呼びます。大谷選手はモノ扱いされているのでしょうか。
『アンミカ流なんとか』という本を出すアンミカさんは、モノなのでしょうか。そうかもしれません。
いやいや、そんなわけない。
流の仕分け
前述の「流」は、どれも「やり方」「スタイル」といった意味の流です。あるいは観山流など伝統芸能に使う「流」になると、代々受け継いできた時間軸上の流れも含んできます。
ただ、これらの流はどれも比喩であり、抽象的でシンボリックな存在です。
一方、人流の流は、観念上の抽象的な存在ではありません。実体があります。その意味で、計測可能なリアルな存在です。
「流」がモノ語彙となるためには、その流が抽象的なクラス定義ではなく、実体を持つインスタンスであることが条件だと言えそうです。
まとめ
- 日本語には「モノ語彙」と「ヒト語彙」がある。
- 「物影」や「物体」はモノ語彙。
- 「人影」「人体」はヒト語彙。「影」も「体」もヒト語彙だから。
- 「物流」はモノ語彙。
- 「人流」もモノ語彙。なぜ?
- 「人」はヒト語彙だが、「人」よりも「流」が強いから、モノ語彙。
- 人流の「流」は実体を持つリアルな存在だから、「人」よりも強い。
ということにしておきます。
そんなところです。
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