電子書籍のサンプル版で翻訳のファクトチェックをやってます。まとめポータルはこちらです。
- トピックごとに適当にタイトルを付けました。
- 電子書籍を参照していますので、引用部分の表示として、ページの代わりに訳書独自の見出しタイトルとkindleの位置Noを使います。
- 引用部の下線はすべて引用者によるものです。
サンプル版のあらすじ
パーツ・アンリミテッド社に起こった人事給与システムのトラブルのあおりで、主人公のマキシンが同社のデスマーチプロジェクトへ「追放」されます。その「フェニックス・プロジェクト」の現場でマキシンが見たものは……というのがだいたいのサンプル部分の筋立てです。
第1章 島流し 9月3日(水)
当記事では4件です。
#1:kick、意外と難しい
訳書
「嘘でしょ、あのフェニックス・プロジェクトに行けですって?」ほとんど絶叫しそうになったが、すぐに自分を立て直した。(フェニックス・プロジェクト)
原書
「」の後ろに当たる部分です。
she nearly yells. Maxine immediately kicks herself for this brief moment of weakness.
(位置No.162)
結論から書くと、こうなります。
ファクトフルな日本語文案
ほとんど絶叫だ。普段ならしないことをしてしまった瞬間、すぐにそんな自分にもイラッときた。
コメント
ポイントは2つです。
まず、kick。英文ではそこそこ多用され、かつ物理的に蹴ってはいないシンボリックな使い方が大半であるため、意外と文意を読み取るのが難しい動詞です。
kick oneselfの
Be annoyed with oneself for doing something foolish or missing an opportunity.(馬鹿なことをしたり、チャンスを逃したりして自分自身にいらつく)
kick oneself / lexico.com
というニュアンスを生かしたいところです。
次が、moment of weakness。直訳すると「弱さの瞬間」となります。辞書にはこう説明されていました。
a short time during which someone makes a bad decision or does something bad that they would not normally do:(誰かがまずい判断をしたり、通常はしないであろう悪いことをしたりする短い時間)
a moment of weakness / Cambridge dictionary
weaknessが何を指すかは文脈で決まるようです。
ここでのweaknessは、「大声を出す」という大人げない態度、それを見せたこと。と解釈できますね。
#2:「タイタニック」にそんなシーンある?
異動先として提示されたジョブ「ドキュメンテーションのヘルプ」に対する、主人公マキシンの反応からです。
訳書
映画の『タイタニック』に出てきたデッキチェア全部にラベルを付けていくような仕事じゃない!(フェニックス・プロジェクト)
コメント
え?
私は観てないので知らないんですけど、映画の「タイタニック」にデッキチェアにラベルを付けていくなんてシーンがあるんですか?
実際にあったらごめんなさいですけど。
原書
原書の対応部分はこうなっていました。
This is like labeling all the deck chairs on the Titanic.(位置No.176-177)
映画と関係ないですね。
ファクトフルな日本語文案
まるで、タイタニック号のデッキチェア全部にラベルを貼るような仕事ね。
よくわかる解説
配属されるフェニックス・プロジェクトをタイタニック号になぞらえて、そのドキュメンテーションの仕事をこう評しているわけですね。今まさに沈もうとするプロジェクトでそれをやって、何になるのと。
rearrange the deckchairs on the Titanic(タイタニック号の上でデッキチェアを並べ直す)
Make superficial and ineffective changes that fail to address or resolve a serious and urgent problem.(深刻かつ緊急の問題に対し、対処も解決もできないような表面的で効果のない変更を加えること)
lexico.com
という慣用句をもじっていることも知れると、さらに意味明瞭です。
さらに補足
原文下線部の読み方について補足します。
定冠詞theが付いてますから、これは「Titanic」という形容詞で呼び表される何ものかを意味します。このtheは特定のthe、平たく言えば、「皆さんご存知」「例のあれ」を指します。一般常識に照らすと、それは船の名前です。
そこを譲っても(譲らなくていいんですが)、映画の話だったら前置詞はonじゃなくてinになるはずだし。
ですから訳書のように「映画のタイタニックに出てきた」という意味にしたいときは、私ならon the Titanicじゃなくて、in Titanic. と書きます。
#3:こんなドキュメンテーションって……
訳した人のドキュメンテーション観に疑問がわいてしまった部分です。
訳書
「クリス、ドキュメンテーションに異論はないわ。あらゆる人が記録される価値を持っていると思うわよ」
この日本語だけで、???となりました。
訳した人は、ソフトウェアシステムのドキュメンテーションをなんだと思っているのでしょう。学校の卒業文集とか、会社の○○周年史みたいな感覚なんでしょうか。
GitでもPostgreSQLでも、まあ何でもいいんですけど、知らなければ1つ2つ実物を見てみればいいのに。インターネットの世の中にサンプルはいくつもありますから。
実際のドキュメンテーションのサンプルを見れば、この日本語が奇妙だとわかるはずです。
原書
“I have nothing against documentation. Everyone deserves good documentation.(位置No.186)
コメント
シンプルなSVO構文なんですけど、動詞deserveの場合、SとOの関係を読み取るのがやや難しいです。にしても、ずいぶんとアクロバティックな読み方をしているなと思います。
deserveの語釈はこれがわかりやすかったです。
If you say that a person or thing deserves something, you mean that they should have it or receive it because of their actions or qualities.
(a person or thing deserves something と言えば、その人なり事物なりの行動や資質を理由に「それを持つべきだ」「それを受け取るべきだ」を意味する)
Deserve / Collins English Dictionary
この説明を原文に当てはめると、「誰もがよいドキュメンテーションを持つべき」「誰もがよいドキュメンテーションを受け取るべき」となるので、こんな感じでしょうね。
ファクトフルな日本語文案
よいドキュメントは誰にとっても有意義よ。
蛇足
蛇足です。私の経験した範囲では、ドキュメンテーションに人に関する記録が出てくるのは、おもて紙や更新履歴の担当者欄のところと、あとはコードや設定ファイルのコメント部分ぐらいですね。Whoの情報が不要とまでは言いませんが、「Why」「What」「How」「When」の方がずっと大事です。
#4:翻訳書あるある「時制の無視、あるいは軽視」
翻訳書あるあるトップ10の常連(弊社調べ)である「時制の無視、あるいは軽視」が例にもれず本書にもありました。
なんと3連続です。まず1つめ。
訳書
君がソフトウェアの力で不可能を可能にしてきたことは誰もが知ってる。(フェニックス・プロジェクト)
現在完了時制の訳し方になっています。
原書
Everyone knows you enable teams to do the impossible with software,” Chris says.(位置No.189)
原文は現在時制でした。
平たく言うと「それがyouの通常営業」ってことですから、こんなところですね。
ファクトフルな日本語文案
君が、ソフトウェアを道具にして不可能を可能にするチームを実現させられるのは、衆知の話だ。
「不可能を可能にする」主体はマキシン本人ではなくてチームですので、そこの事実関係も拾っておきました。
訳書
2つめ。続きです。
俺が君のために戦ったのも、
原書
“That’s why I fought for you,(位置No.189-190)
過去形です。
ファクトフルな日本語文案
だから君の代わりに戦ったわけだし、
コメント
正直、「重箱の隅」です。単体ならスルーします。ただ元の訳文に現在完了時制っぽいニュアンスもあるといえばあるので、一連ものの1つとして取り上げました。
確信としては弱いですが、「今回のことで」のfoughtなんだろうなと読んでます。形だけでも抵抗はしてみせたと言い訳している、そんな解釈。
訳書
シリーズ3つめ。さらにその続きです。
すべてのサプライチェーンと全部で23 か所もある直轄工場の製造プロセスを担当するソフトウェアチームのリーダーに君を据えたのも、みんなそのためさ。
過去形っぽい訳し方です。
原書
and why you’ve led the software teams that are responsible for all our supply chains and internal manufacturing processes for all twenty-three manufacturing plants.(位置No.190-191)
現在完了時制です。
それと、節の主語はyouですね。「据えた」のはクリスだったかもしれませんが、テキスト上の主体はyou、つまりマキシンです。
ファクトフルな日本語文案
全23か所の製造工場向けに、社内のサプライチェーンと製造プロセスのすべてを受け持つソフトウェアチームを君が率いてきたのも、それが理由だ。
あわせて、どこから出てきたのかよくわからない「直轄」も削りました。
ビフォーアフターまとめ
再掲します。ビフォー。
君がソフトウェアの力で不可能を可能にしてきたことは誰もが知ってる。俺が君のために戦ったのも、すべてのサプライチェーンと全部で23 か所もある直轄工場の製造プロセスを担当するソフトウェアチームのリーダーに君を据えたのも、みんなそのためさ。(フェニックス・プロジェクト)
極力原文の時制に沿ってみた「アフター」はこうです。
君が、ソフトウェアを道具にして不可能を可能にするチームを実現させられるのは、衆知の話だ。だから君の代わりに戦ったわけだし、全23か所の製造工場向けに、社内のサプライチェーンと製造プロセスのすべてを受け持つソフトウェアチームを君が率いてきたのも、それが理由だ。
コメント
時制の話をつきつめると、過去の出来事を現在形で書き表す「歴史的現在」も、そのまま律儀に訳すべきか?って問題が出てきます。本書もそのスタイルを取っています。ですがそこは都合よくスルー。
それでもたいていの翻訳書の日本語は、元の英文の時制情報の扱いが軽すぎてほんとに辛いです。
時制の扱いが、軽すぎる!
日本のスマホ代は高すぎると怒る米倉涼子さんみたいになってしまいました。
長くなりますので、ひとまずここまで。
コメント