元の資料にあたる手間を省いて批判する人だらけのネット世間なので、自身に課しておく倫理基準として、なにかものを言うならせめて関係資料をひととおり読んでからにしようと思ったのです。
それで資料を読みつつ総論の下書きをぼそぼそと進めていたのですが、次に述べる事情により、公開の順序を入れ替えて個別の話から始めることにしました。
広島から秩父へと避難する途上、【1945年8月20日】付の「朝鮮人だ!!」ツイートで一躍炎上をキメたシュン@ひろしまタイムライン(@nhk_1945shun)。さて11月13~15日の帰路はどうさばくのかと、出典マニアの図書館大好きおじさんはうっすら注目しておりました。
するとシュン@アカウントは、出発初日11月13日の埼玉県内の行程だけをツイートし、続く11月14・15日の2日分についてはまるまる沈黙。で広島帰宅後の16日付から再開するありさまで。
これもある意味、翔んで埼玉?
そしてツイートはおろか、ブログの「日記の原文」と称するカテゴリーからも14日・15日付の記述をまるごとすっ飛ばしシカトを決め込むという、事なかれムーブ(←ひどい決めつけ)をかましてきました。
「そういうとこだぞ」の意味も込めて、飛ばされた部分の前後を元資料から抜粋し「復元」しておきます。
元資料のご紹介
当記事で引用し比較検討する資料は、次の3つです。成立年の新しい順から、
- 新井俊一郎『軍国少年シュンちゃんのヒロシマ日記〈復刻版〉』(2009)
- 新井俊一郎『軍国少年しゅんちゃんのヒロシマ日記《復刻版》』(2004)
- 新井嘉之作『震災・原爆の業火を超えて』(1982)
です。以下、簡単な各資料の解説です。
新井俊一郎『軍国少年シュンちゃんのヒロシマ日記〈復刻版〉』(2009)
この資料、一般人には「超レアもの」と言っていい存在で、所蔵する公共図書館は国立の広島原爆死没者追悼平和祈念館を除くと、国内で2か所だけです(オレ調べ)。
超レアな資料ですが、資料を求めるニーズがさらに輪をかけてレア。というわけで書影の画像からもおわかりのとおり、図書館大好きおじさんはその1つである広島修道大学図書館からさくっと取り寄せて読みました。この顛末は機会があれば別の記事に書きます。
実は、表紙以外の奥付などは「しゅんちゃん」表記になっているのですが、後述の2004年版と区別がしやすいので、当ブログではカタカナの「シュンちゃん」でいきます。
NHK広島放送局の企画「1945ひろしまタイムライン」の「日記の原文」と称するテキストも、この2009年版を底本にしています。根拠となる記述はいくつもありますが、たとえば、「もし75年前にSNSがあったら?」1945年、広島の中学1年生・新井俊一郎さんの日記原文(1945年11月16日~20日)の11月16日の段、
※日記を書いたご本人が後年つけた注釈:【狭い破屋で大家との同居生活が…】
は、2009年版のものです。底本ではp.107にあります。
新井俊一郎『軍国少年しゅんちゃんのヒロシマ日記《復刻版》』(2004)
郷土資料として、広島県内の図書館にいくつか所蔵があります。私は県立図書館の所蔵資料を見てきました。
2009年版と比べるとワンサイズ大きめ。非常に質素な作りなのが特徴です。ワープロ印刷した原稿を束ねて背中を製本用の糊かテープかで貼り付けたような仕上がりで、複写を取るのに広げるとばらばらになってしまいそうでした。
画像右下に透けて見えてますが、私の見た資料は表紙裏の2ページ目に「編著者寄贈」「2005.3.8」の印があり、さらに裏返すとボールペンで「俊」のサインがありました。たぶん、新井俊一郎さん直筆の「著者サイン本」です。
学級文集のような簡素な体裁に加え、2009年版にない「後を継ぐ者たちへ遺す」の頭書きがあることから、もっぱら身内向けに私家版的な位置づけで復刻し、新井さんが刊行に携わった『昭和二十年の記録』(1984)と同様に、近隣の図書館に寄贈したのかなとの印象です。
資料の完成年は2004年で間違いないか、現物からは確認しそびれました。「2004年版」としているのは、資料検索結果の書誌情報によります。
こちらの11月16日の段の注釈は
【大家自身が被災したため、我が借家を占拠したもの】(p.75)
です。2009年版と2004年版の両エディションを比べてみると違いがいろいろあって面白かったです。各種制約もあって十分に堪能できる時間が取れなかったのがいくらか心残りですが。
新井嘉之作『震災・原爆の業火を超えて』(1982)
新井俊一郎さんの『―ヒロシマ日記』で言及される「父の手記」がこれです。
副題は「私の人生」。3つの中では唯一、価格表示つきの本です。そのためか、道県立レベルでなら広島県外にも所蔵する図書館が若干あります。私は結局「最寄り」の広島で見てきました。
対照用あるいは補足の情報として、適宜こちらの記述にも触れます。
元資料『軍国少年シュンちゃん/しゅんちゃんのヒロシマ日記』比較(抜粋)
ひろしまタイムラインブログの基準に準じ、プライバシーにかかわる部分は極力除きます。ただし面白いところは踏み込むかもしれません。
11月14日(水) 晴 「小前田出発・東京で大阪行へ」
11/14の段について2009年版と2004年版とを比べてみますと、違いのある部分は改行や空白、あるいは句読点の付き方といった体裁面の細部のみで、本文テキスト自体に違いはないと言えます。
「ひろしまタイムライン」と同様に、2009年版を底本とします。引用。
小前田は今朝の一番の電車で出発するので、あさ早く、暗いうちに起きた。(略)朝食。白い米飯にテンプラ。それこそ大ご馳走である。ありがたくいただく。
荷を持ってもらって駅へ。電車に乗車。何事も都合よく進む。(略)熊谷着。ここから貨車で上野へ。天井が無いので寒いことおびただしい。
上野着。電車で東京へ。東京では、朝鮮人が汽車の窓を割って入るので、大阪行きに日本人は並んで待って、ゆっくり(しかし、混んではゐる)と乗れた。席は取れないが荷物に腰かけてゐる。腹痛あり。(p.106)
でもって2004年版には、本文テキストの末尾に
【戦勝国人だ、と威張り返り傍若無人で乱暴な朝鮮人の振舞いに憤怒】(p.74)
と注釈があります。2009年版にこの注釈はありません。
父親の手記の記述では
新井嘉之作『震災・原爆の業火を超えて』とも比較しておきましょう。
労作の先行調査「シュン@ひろしまタイムライン」について出典元やその他の書籍との比較|電脳塵芥(2020/09/07付)
でも触れられていますが、重複をいとわず引用しておきます。
「(3)広島帰任」より。
博多行き列車を目ざしてホームへ列んだ。ホームの一角に朝鮮人が大勢何れも夥しい荷物を持って並んでいた。(略)リーダーがあって統率していた。(略)やはり敗戦の現実だ。今まで蔑視されていた彼らが、あたかも戦勝国民のように意気軒昂として行動を始めたのである。(p.166)
心証として
心証としては、11月14日の東京駅で、おおむね新井さん親子が記述したとおりの出来事があったのだろうなと思います。というのも、「1945年11月」「東京」「博多行き列車」あたりが、鈴木久美『在日朝鮮人の「帰国」政策―一九四五~一九四六年』(2017)の論述とことごとく符合するためです。詳しくは気が向いたらまたどこかで。
11月15日(木) 曇後晴 「あさ大阪着、大竹行へ乗車、廣島に夕方着」
見出しは2009年版の表記にならいました。
細かい違いですがこだわっておきます。2004年版では、
「あさ大阪着、大竹行へ乗車」
「廣島に夕方着」
(p.74)
と、2行に分けてあります。新井さんの1945年当時の日記帳のレイアウトを見ると、こちらの方が元の日記により忠実な書きぶりに思います。
ただどちらのエディションとも、本文テキストの大筋は等しいです。同じく引用は2009年版からです。
目がさめた。京都に着いた。隣の席の人が下車したので、父と自分は掛けられた。大阪へ朝六時ころ着く。(p.106)
蛇足ですが、乗換案内|ジョルダンの検索結果によれば、2020年11月現在、小前田から大阪まで普通列車を乗り継ぐルートの合計所要時間は11時間台ってところです。2020年11月の鉄道事情であれば特急を使わなくても始発で出ると当日の夕方には大阪に着きます。1945年当時は格段に事情が悪いでしょうし、かつ乗車待ちなど乗車時間外のタイムロスもあったでしょうし、日をまたぐのも当然ですね。続き。
長く並んで指定席券を買ひ、順番に並んで大竹行きに乗車する。すいてゐて腰かけられた。万歳だ。出発。このまま行けば、今夜までには廣島に着くわけだ。(p.106)
まだまだ敗戦後の「混乱期」まっただなかでしょうけど、指定席が機能する列車もあったのですね。興味深い記述でした。
同じく乗換案内|ジョルダンの青春18きっぷ検索結果によれば、2020年11月現在の大阪から広島までの所要時間は6時間前後です。朝6時台発だと、午後1時前に広島に着きます。姫路、あるいは相生までは、嫁いわく「JR在来線最速、のぞみより速い」JR西日本の新快速が利用できますし。
JRW223-2000 from commons.wikimedia.org
戻ります。引用つづき。
車掌さんがキップを調べに来た。すいてゐるので廻る事が出来るのだ。無賃乗車してゐた朝鮮人がゐた。乾パンをすこしもらふ。(p.106)
これで、新井俊一郎さんの『―ヒロシマ日記』に出てくる朝鮮人フルコンプしました。
つづき。
(略)森永のミルクキャラメルを開いて二箱ほど食べる。ムスビを少しもらって食べる。米国の進駐軍の屋根に星条旗が立ってゐた。(p.106)
最後に違いが
最後の段落だけ、一部テキストの文言と注釈の付き方が違っていますので並べておきます。
まず2009年版から。※下線は引用者。以下同じ。
廣島に着いた。だいぶ暗くなった。とても混んでゐるガソリンカーに乗って出汐町の家に行く。大家さんが入ってゐるのでかなはない。一先ず、その家に落ち着く。【やっと広島に戻った】(pp.106-107)
2004年版はこうなっています。
廣島に着いた。だいぶ暗くなった。とても混んでゐる【宇品線の】ガソリンカーに乗って出汐町の家に行く。大家のバアさんが入ってゐるのでかなはない。一先ず、その家に落ち着く。(p.74)
「大家さん」が「大家のバアさん」となっています。また、注釈のある場所も内容も異なります。
突き合わせると、2004年版の「大家のバアさん」が、1945年のオリジナルそのまま、もしくはそれに近い記述に思います。
父親の手記:(3)広島帰任より
なぜなら、父親の手記の記述と符合するのは「バアさん」だからです。
その前に回り道。シュン@ひろしまタイムラインのアカウントを追っていれば、シュン@の父が10月に単身で広島へ行っていたことは承知でしょう。
【1945年10月19日】
父が朝早く、熊谷駅まで廣島に帰るための切符を買いに行ったが、買えなかったらしい。
朝食にイモのご飯が出てきた。久々な気がする。
昨日の新聞を読み直した。#ひろしまタイムライン#もし75年前にSNSがあったら— シュン@ひろしまタイムライン (@nhk_1945shun) October 18, 2020
【1945年10月20日】
起きて見ると、父はいない。
母は父の忘れ物を急いで届けに行った。
父は一人歩いて熊谷駅に向かい、切符が買えたら廣島にそのまま向かうという。#ひろしまタイムライン #広島#もし75年前にSNSがあったら— シュン@ひろしまタイムライン (@nhk_1945shun) October 19, 2020
【1945年10月27日】
父が廣島から帰ってきていた。酷く疲れている。
名古屋から腹が痛いそうだ。盲腸か。または腹壊しか。
とても痛そうにうなっている。薬が効かないのか、寝付けないようだ。#ひろしまタイムライン #広島#もし75年前にSNSがあったら— シュン@ひろしまタイムライン (@nhk_1945shun) October 27, 2020
新井嘉之作『震災・原爆の業火を超えて』ではこう述べられています。
私の健康状態も自信を持てる程度に回復したので広島帰任を急いだ。(p.163)
広島行きは、師範学校の仕事に戻ることが目的だったとわかります。しかし、枕崎台風による被害のため
広島あたりも風水害がひどい模様で、家もどうなったか、隣組に電報を打ったが返事はない。(後で電報なども不通なことが解った。)しかし、徒らに遷延はできないので、単身で出発した。十月十九日のことである。早暁、まだ真っ暗な中を妻に送られて家を出た。
汽車の旅行は惨憺たるものだった。沿線、殊に神戸以西の台風被害の跡はまだそのままで、危ない線路を徐行した。(p.163)
といった具合でした。
なお10月20日発とするシュン@のツイートと比べると日付が1日ずれていますが、ずれはずれのままとしておきます。
では本論。
二十日の夕方、やっと広島の家についた。塀の外から何やら洗濯物の乾してあるのが見えた。おかしいな、空家のはずだが、と勝手口から入ると、見慣れないお婆さんが三畳の間に居る、その狭い部屋に、その人のものらしい道具がごちゃごちゃと置いてあった。話しをしても通じない。(p.164)
というわけです。これが10月の話。
11月15日に家族で帰り着いたときのことは、こんな書きぶりです。
さて、差配(略)は依然、入居することは断る、というが、家族を連れて旧居に来てしまったのだから、さすがの彼も追い出すわけにいかなかった。とりあえず入居は認めるが、一日も早く他の家を捜して転居してくれという条件つきだ。(p.167)
新井嘉之作は「大家」ではなく「差配」と書いています。
差配とは
持ち主に代わって、貸家や貸し地を取りしまる〈こと/人〉(三省堂国語辞典 第七版)
の意です。「大家」も「差配」も借家の借り手から見たポジションとしては大差ないですが、当時成人であった父の記した「差配」の方が、より実態を正確に反映していそうではあります。
引用つづき。
(略)お婆さんは協調的で、そこそこに身のまわりを片付けて裏の家へ移った。ともかく強引に座敷へ上ったが、使えるのはわずかに三畳一間、ここに四人が旅の疲れに、欲も得もなく眠りこんだ。(p.167)
この「裏の家」というのも元は新井家が借りていた専有部分だったのかどうか、そこは私自身がはっきりしません。精査すればどこかに記述があったかもしれませんが。
11月16日(金) 晴 大家とのかうせう
2009年版としての記述は、
「もし75年前にSNSがあったら?」1945年、広島の中学1年生・新井俊一郎さんの日記原文(1945年11月16日~20日)
の16日の段にあるとおりです。2004年版と記述の違う部分だけを抜粋すると、こうなります。
間取り5割増しの謎
2009年版。
茶の間の四畳半にギウギウつまって寝た。(p.107)
茶の間(四畳半)と玄関の間(二畳)(p.107)
2004年版。
茶の間の三畳にギウギウつまって寝た。(p.75)
茶の間(三畳)と玄関の間(二畳)(p.75)
先に見たとおり、父の嘉之作の手記では「三畳」です。新井さんが2009年版でなぜに5割増ししたかは不明です。もちろん、最も記述の新しい「四畳半」が、事実関係として妥当な可能性も十分あります。
占拠の主
2009年版。
ここに今までゐた大家の人は、隣家に行って寝たらしい。(p.107)
2004年版。
ここに今までゐたバアさんは隣家に行って寝たらしい。(p.75)
「バアさん」の方が、表現が具体的かつ生き生きしていて好きです。
大家は伏せ字で(1)
2009年版。
大家は我々の不在の所に、カギのかかってゐた所をこじ開けて侵入して来たのである。(p.107)
2004年版。
大家の■■は我々の不在の所に、カギのかかってゐた所をこじ開けて侵入して来たのである。(p.75)
テキストでうまく表現できないんですが、ただの「伏せ字」じゃないですんよねこれ。現物だと、印刷した文字の上からペンで塗りつぶしているように見えました。コピーの写真ですが、こんなです。
この処理に至った過程について想像をふくらませると、実に面白いです。
カネがあれば、他の2004年版『軍国少年しゅんちゃんのヒロシマ日記』のここがどうなっているか、所蔵図書館を全部訪ねて見て回りたいほどです。想像をふくらませた結果をどっかでツイートしたら、炎上できるかな?
なお父の手記では、「差配」の名は実名(たぶん)で出てきます。先の引用では略しました。
大家は伏せ字で(2)
2009年版。
それで今日、大家の祖父と父とが外交を開始した。(p.107)
2004年版。
それで今日、大家の(略)の祖父と父とが外交を開始した。(p.75)
消しが甘くてここだけ名前が出てるんですよね。モザイク職人がうっかりしてキンタマ見えてるゾ、みたいな。
けれど、父の手記とは違う名前になっています。手書きの日記をワープロ入力して復刻するにあたり、新井さんが仮名に変えたんじゃないのかなと想像しています。迷いましたが、引用でも伏せておくことにしました。
大変なタンス
2009年版。
タンスが大変だ。(p.107)
2004年版。
タンスが大変だ。【この被爆タンスは、今も保存中】(p.75)
寄贈したとかでもう保存してないから、2009年版では注釈をカットした説です。想像です。
再び間取りの謎
2009年版。
大家の一家(十数人)は奥の居間に入れることに決着した。(p.107)
2004年版。
大家の一家(十数人)は六畳に入れることに決着した。(p.75)
新井俊一郎さん一家4人が借りていた家の間取りに関しては、サザエさんの磯野家並みにディテールが混沌としています。
おわりに
以上、11月中旬の3日間限定での元資料比較でした。
最後に少しだけ現下の「ひろしまタイムライン」への所見を述べておきますと、ネット世間からの批判に対して賛同できるのはせいぜい3分の1程度で、殊に「炎上」以降の批判については7割以上が的外れだと思っております。
でもね、だからって「ひろしまタイムライン」援護にもさほど乗れないんですよね。そもそも自分にとって当事者性が薄いし、この記事でつついている「そういうとこ」もあるし。でもって出典マニアに言わせれば、ブログの「日記の原文」の名称からしてミスリーディング、悪くいえば羊頭狗肉だしで。
とまあこんなざまですが、それはそれこれはこれの姿勢で、ぼちぼちと続けます。
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