戦ってしまえば 全てはいつかチェックメイト
――ゲスの極み乙女。〈戦ってしまうよ〉(詞:川谷絵音, 2018)|YouTube
ごきげんさまです。
お気持ちコンサルタントのヤシロです。
新・お気持ち片づけ術「脱修羅(だっしゅら)」を提唱しています。
「お気持ち仮説」で読みとくシリーズの途中ですが、単発記事として独立させます。
こちらの記事で
「断捨離」はやましたひでこさんの造語ではなく、沖正弘(1921-1985)が遅くとも1976年から使っていた。
という事実を紹介しました。おかげさまで、ごく狭い範囲ながらもある程度浸透したようです。けれども「断捨離」にとって致命的ともなるこの事実の重さまでは、残念ながらまだまだ知られてはいません。
なぜこの事実が致命的かというと、やましたさんを筆頭とする断捨離家の一族からすれば、「次の一手」でこう出られれば論理的に詰み。チェックメイトだからです。
チェックメイト質問
その「次の一手」は、既にTwitter上に公表済みです。
最短ルートで #断捨離を断捨離 できる質問を考えました。どなた様もご自由にお使いくださいませ。
【質問】
「断捨離」は、元は沖正弘という方の言葉だとネットに書いてありました。
やましたさんの提唱されている「断捨離」は、沖さんの「断捨離」と同じですか?違うのですか?— ヤシロタケツグ【要出典】 (@yashiro_with_t) 2019年6月14日
まともな論理では、この質問に答えられません。
「同じ」なら嘘つき
「同じ」と答えると、やましたさんが「断捨離の提唱者」というのは、ウソになります。
この場合、断捨離の提唱者は沖正弘です。
「違う」なら支離滅裂
だから「違う」と答えたいところですが、そうするとおかしなことになります。
ならばなぜ、自分と違う「断捨離」に憤ったり、無断での商業利用を禁じたりしなければならないのでしょうか?
自分の掲げる「断捨離」も、沖の掲げた「断捨離」と違うのに。
「断捨離」の支離滅裂に迫る
これが一休さんのとんち話なら、ここらで殿様やら商人やらがむぎゅーとなって終わるところです。けれども無慈悲きわまる地獄であるこの世では、話は終わりません。
無断使用の横行
勝手使用の跋扈それよりも、なによりも、
浅薄な解釈で、「断捨離」を、さも、自分のものとして語る輩たち。
それが、一番、やりきれなかった。
出典:それが、一番、やりきれなかった。|やましたひでこオフィシャルブログ「断捨離」(2018/08/29付)
なぜやりきれないのでしょう? なぜ「それは違いますよ」と表明するだけですまないのでしょう? 問題はそこです。
以下は、オフィシャルブログのまた別の記事から。文字修飾もまねてみます。
「断捨離」は、やましたひでこ個人の登録商標です。
そうですね。
決して、一般名詞ではありません。
違います。一般名詞でもあります。
つまり、「非常に広く知れ渡っている」と評価されるべき登録商標です。
以上出典:やましたひでこ憤る!~コレが本物のカニでないように、ソレは「断捨離」ではありません。(2018/10/05付)
あい変わらず、非常に紛らわしいです。
断捨離を「非常に広く知れ渡ってる」と評価するとき、その大部分は一般名詞の断捨離が担います。なぜなら集団のサイズは、
「断捨離」を知る人 > 「断捨離」提唱者はやましたひでこ、を知る人 >> 「断捨離は登録商標」を知る人
という関係だからです。2015年以来つづく、登録商標「断捨離」にザワつく静かなブームが、その証左です。
こうした支離滅裂に迫るための道具が「お気持ち仮説」です。一見そうは思えない物事に対し、
ひょっとしてそれは「お気持ち」の問題ではないか?
と考えてみる、という手法をとります。
ということで。
コメント
手元にある沖導師(沖先生の当時の呼び方で、尊敬しているのでこの語を使います。)の最初期の本、「ヨガ行法と哲学(旧版)」昭和35年発行の331ページに「断、捨、離」とあります。他のページにも出てくるのかもしれませんが調べていません。
この本より前にも機関誌などを発行されているので、この本が初出とは言えませんが、1960年には使っていたことになります。
沖導師の「断捨離」の意味ですが、世に言われてる「断捨離」とはかなり違うように感じます。この本では、『断ち、離し、捨てて、苦しみを感じる場合には、中毒しているのであって、煙草に中毒していると、これを断った時に苦しみを感じ、家族に中毒しているものは、家から離れると苦しみを感じるのである。ありがたみも、喜こびも、感謝も感じない生活は、中毒している証拠であるから、とにかく、慣れてはいけないのである。(中略)時々、離れてみる、別れてみる、無いつもりになって生きてみると、正しい観方、受け取り方が生まれてくる。物の価値、ありがた味、必要性、恩、自己への協力、自分の位置、自分の責任などをしみじみと味わうことができる。(後略)(331~332p)』
沖導師の「断捨離」は、捨てる技術ではなく、あたりまえの中で麻痺してしまった物事へのありがたさ、恩を感じる精神の清らかさを、言っているのではないでしょうか。