日本人の9割が知らない共感のしくみ(2)

みちゃこの共感講座、後編です。

世の中の「共感」が混乱しています。違いは当面違いのままとして、共有しておきたい基本的考え方を整理します。

後半では、共感がたどった道のりをひもとき、そこに影響を与えた意外な要因を明かしていきます。共感してください。

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※写真と本文は関係ありません

前回のあらすじ

前の記事、日本人の9割が知らない共感のしくみ(1)で、共感には2つあると述べました。

  • 「情動的共感」と「認知的共感」
  • 「固めるタイプ」と「吸わせるタイプ」

など、呼び方はお好きにいろいろです。

とにかく日本の共感は、前者の、賛意を伴うタイプが圧倒的マジョリティです。

要するに「シンパシー」と「エンパシー」

たね明かししてしまうと、前の記事でるる述べてきました2つの共感の違いは、英語の「シンパシー」と「エンパシー」の違いにほかなりません。

sympathy と empathy。

両者の接頭辞である、

  • sym(syn)には「揃う
  • em(en)には「入る

という意味があります。

そしてpathyは、「感情」を意味するギリシャ語のpathosに由来します。

♪〜ほーとーばしる熱いパトスで のpathosです。

ちなみにoxford dictionary「empathy」によると、empathyのOriginは「Early 20th century」だそうです。ドイツ語を経由して20世紀になってから使われだした、比較的新しい言葉なのですね。

混迷を深める用法

という具合に、語形からはきれいに仕分けできるのが2つの共感です。

しかし現今の用例を見ていますと、混迷の度を深めている感があります。

英語圏のempathy事情

ポール・ブルーム『反共感論』(高橋洋訳 2018, 原著2016)によると、こんにち英語圏の共感(empathy)が意味する範囲はかなり広いようです。

道徳性(morality)、親切(kindness)、思いやり(compassion)などの類義語として、あらゆる善きことに言及して「共感(empathy)」という語を用いる人がいる。(pp.9-10)

あるいは、こういう共感もあると言及しています。

他者を理解する行為、つまり他者の頭のなかを覗いて、その人が何を考えているかを理解しようとする行為(p.10)

当記事で「認知的共感」と言っているやつです。著者のブルームさんが同書で問題にしたい共感は、

他者が感じていると思しきことを自分でも感じること(p.10)

らしく、
実際、英語圏の子供向けにempathyを教える動画を探してみると、

the ability to understand and share the feelings of another being
(他者の感覚を理解し共有する能力)

と、feelingsの「シェア」を前面に打ち出していたりするわけですが。

Empathy/Empathy for Kids/Empathy for Children/Empathy for Students|Kids Learning Tube(2018/06/22付)

まあそれはそれとして、ここでふまえておきたいのは、目下英語で「共感」を受け持つ単語empathyの意味領域が、非常に広範かつ多様であることです。

日本語の共感事情

一方、比べてみると、日本語の共感は相対的に大変狭い範囲を指す言葉です。

たとえばこの記事、見過ごされる“共感されにくい人たち” どう救うべきか?(永井陽右)|朝日新聞デジタル&M(2018/09/21付)

での共感の定義はこうです。

「他者の感情に対する理解と共有から生じる、他者の幸福を志向する感情的反応」

わざわざ「広く定義しておきたい」と宣言されているにもかかわらず、この日本語記事の共感は、アメリカ人の書いた本でいう狭義のempathyと変わらないことがおわかりかと思います。

前の記事でも述べましたとおり、一般の日本語では何らかの賛意を伴う同調型がもっぱら「共感」と解されており、少数派である「吸わせるタイプ」「再現VTR型」の共感は、まるで念頭にない節があります。

Yahoo!ニュースの見出しに現れる「共感」に、後者の意味を持つものがほとんど存在しないことがその証左です。日本語一般の「共感」像、ひいては日本人一般の共感像が狭量なものとなるのも、致し方ないのかなという気もします。

empathyの奇妙な「ねじれ」現象

共感の意を受け持つ英単語empathyは、かなり意味領域が広い言葉になっていると述べました。

実は、当記事で紹介しました「情動的共感」「認知的共感」の区分も、英語の「emotional empathy」「cognitive empathy」の訳語です。empathyを細分化したもの言いになっています。

元始、それはsympathyだった

けれど、原義に照らすとこの現実は奇妙です。語形からすれば、情動的共感はsympathyが受け持たなくてはいけません。感情(pathy)が揃う(sym)のですから。

事実、18世紀に生きたアダム・スミスは、著書『道徳感情論』でsympathyを今日の「情動的共感」の意味で使っています。

ところが今日、英語のsympathyはしばしば「同情」と訳されるように、共感のうちでもごくごく狭い領域を指す言葉になってしまっています。

emだったらcognitiveでは?

一方、empathyといったら入る(em)タイプの感情(pathos)なんですから、cognitiveなものに決まっています。情動が伴うかは二次的な問題です。

ところが既述のとおり、empathyの指す範囲は「認知的な」共感にとどまりません。9割がた同調型を指す日本語の「共感」も、英語ではまとめてempathyが担当しているのが現状です。

このように、現今のempathyの用法は、原義を基準にすると相当な乖離が見られます。

なぜ、こんなことになっているのでしょうか。いろいろ要因はあるでしょうけれど、思うにひとつは、原義に沿ったエンパシーがそれ自身の持つ大きな弱点を克服できなかったゆえではないかと考えます。

エンパシーの弱点=誤読

ちょうど再現VTRを制作するように、相手の内面に入るタイプの共感であるエンパシーには、ひとつ大きな弱点があります。

それは、誰かの主観が作った「再現VTR」の正確性が一切、保証されていないことです。

制作者の「自主規制」を除いては歯止めをかける仕組みが存在しないので、簡単に読み違い、誤読が起こります。

オードリーの#metoo

1957年の映画「パリの恋人(原題:Funny Face)」のなかに、オードリー・ヘップバーン演じるパリのインテリ書店員が、フレッド・アステア相手にシンパシーとエンパシーの違いを説くシーンがあります。

日本語字幕から引用します。

同感とは他人の感情を
理解する事です
(Sympathy is to understand what someone feels.)

共感とは他人の感情を
そのまま自分も感じる事です
(Empathy is to project your imagination so that you actually feel what the other person is feeling.)

他人に同化する事です
(You put yourself in the other person’s place.)

混乱がみられる定義はスルーして。

お分かり?
(Do I make myself clear?)

でどうなったかというと、このありさま。

Empathy – Audrey Hepburn

とんだ#metoo事案です。

共感を狂わせる道徳

原義からはかけ離れてしまっているという事実を指摘したいだけで、empathyの用法がアンバランスな現状を否定するつもりはありません。

原義のままに仕分けるのがよほど美しいと思うのですが、感情、ことに道徳がからむとそうもいかないんだろうなと。克服するすべを見つけられなかったゆえかなと。

まとめ(2)

  • symは「揃う」、emは「入る」です。
  • 「入る共感」は簡単に間違えます。
  • 道徳心も共感も人の認知を狂わせます。
  • 言葉の意味は、なりゆきで移ろいます。

そんなところです。

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