こんにちは。
日本語の「いち」と「ひと」の違いについて考えてみました。
結論
日本語の「いち」と「ひと」の違いは、「数え続ける意志」に集約されます。
意志の明確さによって、「いち」と「ひと」を使い分けます。
※写真と本文は関係ありません
イントロダクション
「いち」「ひと」は、どちらも〈1〉という概念を表します。
また、どちらも漢字の「一」の読み方です。
「一」には他の読みもありますが、当記事ではこの2つに絞って検討します。
しかし、両者は完全に交換可能なことばではありません。
- 「いち」だけが表す概念
- 「ひと」だけか表す概念
がそれぞれ存在するからです。
では「いち」と「ひと」はどう違うんでしょうか。いろいろ考えての結論を端的に述べます。
両者の違いは「数え続ける意志」に集約できます。
「数え続ける意志」
「数え続ける意志」
なんだか意識高いスポーツ選手が出す本のタイトルみたいですが、それはさておいて
-
- 数え続ける意志が
- 明確ならば、「いち」
- ない、もしくは弱ければ「ひと」
を使うのが、日本語のルールです。
そのどちらとも言いがたい中間的なケースや、数え続ける意志がそんなに重要でないケースでは、後ろに続く語の読み方に揃えます。
こう理解しておけば、そんなに外していないように思います。
早わかり「いち」「ひと」の違い
先にまとめておきます。
「いち」限定の概念
「いち」だけが表せる概念には、英語で表すと
- first
- one of 〜
- whole
があります。
どの意味にも「数え続ける意志」が備わっていると評価できます。
同時に、暗黙に「同質の他者の存在」も必要となります。
「ひと」限定の概念
他方、「ひと」だけが表せる概念には、
- a ___ of (+不可算名詞)
- another(+可算名詞)
があります。
数え続ける意志は全然ないか、あっても非常に弱いです。
数え「続ける」というよりも、むしろ「ひと」には、区切りのない世界から〈1〉と数えられる何ものかを「生成する」という、そこの作用自体に用法の重点があると言えます。
また事実として、「ひと」が語中、語尾に現れるケースはほとんどありません。
よって〈1〉を表す日本語の「ひと」は、「〈1〉を生成するための接頭辞」と整理する方が、切り分けが単純すぎるデメリットを差し引いても理解には有用かと思います。
余談:語尾なら「いち」
余談として、広辞苑のデータを紹介します。
手持ちの電子辞書(『広辞苑』第五版)で調べたところ、語尾に付く「一」の読みは、「いち」(または「いつ」)一色です。「ひと」と読む例はゼロ、皆無でした。
たとえば、「日本一」の「一」は前の「日本」をどう読んでも「いち」です。黒田節のように、トリッキー?に「ひのもと」と訓読みしても「いち」です。
あるいは「今一つ」は「いまひとつ」ですが、これを「今一」と略すと「いまいち」です。
ただし「今一」の例がそうですが、日本語の「ひと」が事実上語中・語尾に現れないという事実は、当記事での解析結果からは説明がつきません。まだ解明の余地があります。
復習:数の数え方
今一度、日本語での数え方について復習しておきましょう。
日本語での数量の呼称体系には、大きく2つの系列があります。
- 「いち・に・さん」と数える漢語系の系列
- 「ひ・ふ・み」と数える和語系の系列
です。
いち・に・さん系列=漢語系
漢語由来の数え方です。十進法の体系が整っており、それこそ一生涯かけても数え続けられます。億千万延々とできます。なんなら気がすむまで数えてみてください。
ひ・ふ・み系列=和語系
古くからの日本語に由来する数え方です。
しかし現代日本語においては、相対的に数え続ける力が弱いと言えます。数え続けたくても、すぐにゆきづまってしまいます。
実際にやってみましょう。日数を表す「日(か)」、個数や年齢を表す「つ」などを数えてみてください。続けられるのはせいぜい10(とお)までです。
他の例では、数えようにも3(み)がいいところです。試しに、回転寿司の「皿」や場合の数の「通り」を数えてみましょう。「3皿」「3通り」が「さん」になったあなた、ゲームオーバーです。
このあたりは、過去記事も参考にどうぞ→
日本語での数の読み方について: 1から10、そして0(2013/05/26)
「加藤一二三九段」をどう読むか
そういえば、ひところ
加藤一二三九段
を、加藤「せんにひゃくさんじゅうく」段と読むギャグがありました。
このケースで興味深いのは、「一二三」オリジナルの読みは「ひふみ」なのに、そこが漢語系の「いちにさん」系へ完全にスライドしていることです。「ひとせんふたひゃく……」みたいにならないんですね。そうなるのはそれこそ株式市況だとか、公営ギャンブルのレース結果とか、そこそこ特殊なケースに限られます。面白いです。
といった具合に、日本語での数の数え方は、古代のある時期に中国から輸入した思想体系、本居宣長言うところの「からごころ」に今なお支配されていると言えましょう(テキトー)。
続ける「いち」、続けない「ひと」
延々と数え続けられる漢語系、対して数え続ける力の弱い和語系。この両者の性質を引き継いでいるのかはわかりません。
しかし事実として、両系列の数えはじめの言葉である「いち」と「ひと」の両インスタンスとも、それぞれが属するクラスと同様の性質を持っています。
わかりやすい例:
日本語にはちょうどいい具合に、同じ表記の「一」を「いち」と読むか「ひと」と読むかで、意味が全然違ってくる言葉があります。
一押し
です。
- いち押し
- ひと押し
「いち」と「ひと」とで、意味、全然違いますよね。
「数え続ける意志」を切り口にして、詳しく確認していきましょう。
意志が明確=「いち」
序列の「いち」:first
序列、順序の〈1〉を意味するとき、前後に接続する語句に関係なく「いち」が使われます。
「いち押し」も、この「いち」です。
くり返しますと、序列を表す「いち」の場合、前後にどんな語句が連なっても「ひと」には変化しません。実際、音読みした「いち」の後ろに訓読みの語が続く例も少数派ながら実在します。
直後に「の」が入るケースが大半ではありますが、
一関、一宮、一の鳥居、一の谷、一の丸 などなどです。
この用法に限れば、「いち」=「1つめ」の意、としてよいでしょう。
他をさしおいて1つめに押すのが「いち押し」です。
「いち」の特徴は、数え続けられることです。上に挙げた例でも、どれも二(の)以降の存在が暗示されます。2,3,4,5…とどこまで続くか、続けられるかはケースバイケースでしょうけれど、「いち(の)」は後続の存在あっての「いち」なのです。
ケーススタディ:一姫二太郎
一姫二太郎
という言葉があります。一姫の「一」は順序を意味します。ですから、続く「姫(ひめ)」が訓読みであろうと、「いち」です。
世の中にはこの言葉を「女の子1人と男の子2人」と解釈する人もいますが、後ろの「姫」と音訓が食い違っているにもかかわらず、「一」をわざわざ「いち」と読んでいる、この事実を軽視しすぎです。日本語の「いち」の理解が足りずに論理を外した解釈だと言えます。
残りの「one of 〜」「whole」の概念については、いったん「ひと」の方を確認してから後述します。
数え続けない、意志の弱い=「ひと」
ひと押し
を例に、日本語の「ひと」を考えてみましょう。「ひと」の主な特徴を挙げていきます。
「ひと」という言葉は、
- 〈1)を数えるというよりも、
- 〈1〉と数えられる単位をこしらえること
そこに用法の重点があります。
なので、生成の「ひと」と呼ぶことにします。
生成することが重点ですので、生成の「ひと」には数え続ける意志はないか、あっても非常に弱いです。 2,3,4…の存在は不要、またはどうだっていいのです。
生成の「ひと」は続く体言(名詞)の性質によって、主に次のような意味になります。
+不可算名詞:a __ of 〜
ひと安心・ひと苦労・ひと波乱 など
英語の、a slice of bread, a sheet of paper(一枚の{パン、紙})
といった語法とよく似ています。数えられない何ものかを、ある何かしらの単位にくくってあります。
+可算名詞:another
ひと試合・ひと世代 など
これら生成の「ひと」は、後ろに音読みの語が続くときも「いち」には変化しません。
ただし「ひと」+可算名詞での「ひと」の拘束力は弱く、「数え続ける意志」が積極的に認められるケースでの用例、すなわち、「いち」への置き換えが可能な例も観察できます。このあたりが「いち」との境界線になりそうです。
「ひと」を生成するのは、時間軸の中
数え続ける意志がないか、あっても非常に弱いことに加えてもうひとつ、生成の「ひと」には「時間軸の中で数える」という特徴があります。
たとえば、列車内かどこかで知らない2人連れがうたた寝しているのを見かけても、それをふつう「ひと眠り」「ふた眠り」とは数えません。
生成の「ひと」には時間差が必要です。
事実上、接頭語
先ほど、広辞苑で探しても語尾にくる「ひと」の例は一つもなかったと述べました。和歌・短歌を意味する「三十一(みそひと)文字」といった例を除けば、「ひと」が現れる位置は、事実上語頭に限られます。
そのこととの因果は不明ですけれども、生成の「ひと」には接頭語のニュアンスが強くあります。
「ひと」で生成した結果、動作となる
文化庁刊行の『言葉に関する問答集』では、「ひと」が
結合対象の名詞や結合形が動作性の意味を持つ
みたいに解説されていました。(「一段落」は「イチダンラク」か「ヒトダンラク」か, 1993)
お言葉ですが、前半いらないですね。結合対象の名詞の性質は「ひと」と無関係です。
「ひと」で生成させた結果、「ひと+名詞」の結合形が動作的性質を帯びた言葉になるのです。
動作になる例:風呂
「風呂」で考えてみましょう。
風呂は動作を表しません。物体、または空間の名前です。風呂に関係する、動作を表す言葉といえば「入浴」でしょうね。
ですが風呂に「ひと」を加えて「ひと風呂」とした結果、入浴にほぼ等しい、動作的な意味が現れるんです。
くり返しておきますと、こうした生成の「ひと」は、「いち」には置き換えられません。
「いち」(その2):one of の「いち」
序列・順序の「一」でも同じことが言えますが、「いち」を使うときに暗黙に規定されているのが「同質の他者の存在」です。
「一素人の見解」
というとき、素人(しろうと)は訓読みですが、前に置かれる「一」は必ず「いち」です。普通「ひと」とはなりません。父親、母親、といった訓読みする熟語でも同様です。
この「いち」は、one of 〜を意味しています。つまり文脈上、他にも同列に挙げることのできる「素人」なり「父親」「母親」の存在が規定されているからこそ、「いち」ほにゃららと言えるのです。
「日本一」も同じです。
たとえば、マリン・ソムリエ(creatorsfile.com) に「日本一」の形容は恐らく無意味です。たぶん同質の他者が存在しないでしょうから。
- 日本一の噺家
- ここの寿司屋は日本一
のような意味ある言明となるには、「同質の他者」の存在が不可欠です。悉皆調査なり有意なレベルでのサンプリングなりを行っているかはともかくとして、主観的には日本という範疇に存在する同質の他者、すなわち噺家なり寿司屋なりを比較した結果の「日本一」であるはずです。
他者のいらない「ひと」
一方「ひと」の場合、こうはいきません。
たとえばほっと「ひと安心」したとき、「同質の他者」の存在は必須ではありません。他に同じような安心があろうがなかろうが、どうでもいい話です。
肝心なのは、話者の主観の中でひとくくりにして取り扱える「安心」のパッケージが生成されていること、その生成作用そのものです。
そこが「ひと」の本質です。
いち(その3):whole
ほか、一で始まる熟語には、「全体」wholeを表すニュアンスの強い「いち」もあります。
一同・一概、あるいは関東一円の「一円」などなどです。
これは数え続ける意志の始まりとしての「いち」というよりは、同質の他者を数え上げての、あるいは含め入れての「いち」と解釈できます。数え続け続けての終着点です。数え続けての最果てが「いち」って、ややこしい話ですが。
まとめ:一段落を考える
日本語の「いち」と「ひと」について、互いに意味の重ならない領域にのみ着目して考えてきました。
最後のまとめとして、「一」に「段落(だんらく)」をつなげた「一段落」という言葉を考えます。
- 「一」が語の先頭にある
という事実に加え、「一段落」で表される概念は
- 数え続ける意志が弱い。「二段落」の存在を必要としない
- 元は可算名詞の「段落」だが、「一段落」での段落は、むしろ不可算の抽象概念に変化している
- さらに、時間軸の中で数える性質を持つ
と、ことごとく生成の「ひと」の特徴を備えています。
「一段落」の伝統的な読みは[イチダンラク]です。
出典:「一段落」の読みは? ○[イチダンラク]×[ヒト~] NHK放送文化研究所(2010/12/01付)
のように、別解を排斥するかのようなもの言いも見られますが、「ひと段落」でもいいんじゃないですかね。
「一段落」の元が「いち段落」であったことに異論はありませんが、当記事での検討結果をふまえれば、「ひと段落」の方がむしろ理に適った、合理的な日本語だと言えそうです。
そんなところです。
コメント
単なる打ち間違いですが、
『「ひと」だけか表す概念』
のところ、『か』になってますよ。