こんにちは。
「ヒマなおっさんが選ぶ・今年の新語(ジラ)2017」大賞が「インスタ映え」に内定したことを記念して、近代「リアリズム」「絶対非演出」写真の雄と(私に)称される写真家、土門拳(1909-1990)の写真論集(ちくま学芸文庫)から、関連する記述を拾い上げてゆきます。
土門拳「インスタ映え」写真論
初出の時系列は前後しますが
- 写真は見せるものである(1958)
- アマチュアのすすめ(1950)
- 二つの方向:「自己閉鎖的」「自己開放的」(1954)
- 土門リアリズムの反省(1965)
以上の4部構成でお届けします。なお初出情報は、同文庫の記載に拠ります。
雨蛙(1963) ※土門拳とその作品「風景」|土門拳記念館より
写真は見せるものである(1958)
「写真は見せるものである」
土門はこう説きます。
写真家の目とレンズとモチーフの三者が一直線に並びながら、もう一つの写真家の目ははっきりと、その場にいない広大な大衆というものを予定しなくてはならない。(p.317)
要は、見せる相手を念頭に置けと言っております。
大衆の目になってということは、報道写真は、ほとんどこの上に立っていたわけだ。ただ、これではほんとに済むか済まないかという問題が残るわけだ。もしそれで済むものならば、それでいいのだけれども、どうも済みそうもない。(p.317)
と留保しつつも、
つまり対象に直結したところにリアリティが発生するのではなく、〝見せるもの〟ということが意識されて処理されたところに、初めてリアリティが生れるのだ。(略)そこで初めて真にプロとアマチュアとの区別も生れてくるわけだ。(p.318)
写真においても、それが組写真であろうと一枚写真であろうと、そこに結論がなければならない。そのためには、左の目でファインダーをのぞき見ているならば、右の目では大衆の方を見ていなければならない。ロンドン・パリ式の目になってしまうわけだ。写真は見るものでなく、見せるものとして撮らなければいけないわけだ。(pp.319-320)
その見せ方たるやいろいろあると思う。一人称、二人称、三人称と、そのやり方はいろいろあるが、それをモチーフの本質というものに、自然的に非常にすなおに順応しなければならぬということに相通ずる。
これは主として写真家の立場であるが、月例応募のアマチュア諸君も、審査員に〝見せるもの〟、雑誌を通して広く大衆に〝見せるもの〟ということは、大いに研究してもらいたいことなのである。(p.320)
と締めくくっています。
なかなかのインスタ映え発想です。
初出情報:『フォトアート』1958年7月号 月例選評
アマチュアのすすめ(1950)
土門は「カメラ」誌1950年12月号の選評で、「この際」「読者諸君全部に、注意を喚起しておきます」と、アマチュアのすすめを説いていました。
要約すれば、
- 「セミ・プロ」いかがわしい。ダメ、ゼッタイ
- まして「プロ」ダメ、ゼッタイ
ぐらいですむ話ですけれども、後半部分だけテキストを引用しておきます。
ついでにもう一つ、注意しておきたいことは、諸君がどんなに写真が好きでも、どんなにのぼせても、僕たちのようなプロになろうなどと、絶対に考えてはならぬ、ということです。アマチュアからプロになることは出来ません。それは何も写真に限らず、絵画、彫刻、音楽、そして碁や将棋や角力でも同じことです。まれに例外はあるでしょう。しかし、アマチュアからプロへの転向者で、第一流になったためしはありません。出発と修業が全然違うのです。(p.047)
現代の私的な実感からすれば、そうでもない気もしますが。つづき。
アマチュアはそのアマチュアリズムの故に尊いのです。そしてアマチュアリズムはその利害打算をはなれた純粋さの故に尊いのです。日本写真界の生んだ偉大な写真家安井仲治は、卓抜な技術家であり、また該博な理論家でもありましたが、最後まで一アマチュアであり、大阪の問屋街の旦那衆でありました。諸君がプロになろうとすることは、絵が好きで、朝から晩まで絵を描いていたからといって、ペンキ屋か挿絵屋になるのと同じです。諸君は自分の立場に高い見識と誇りを持って、悠々と勉強をして頂きたいものです。(p.047)
おそらくは、あくまでもおのれの「好き」に依拠し「好き」を原動力とするアマチュアリズムの尊さを強調したかったのだろうと想像しますが、正直言って、全体ではしなくていい主張も混ざっている気がして、意図をつかみかねる文章ではあります。
初出情報:『カメラ』1950年12月号
二つの方向:「自己閉鎖的」「自己開放的」(1954)
関西学生連盟における講演で、土門は次のように語っていました。
さて、写真を真剣に、真面目にやろうとする場合、ぼくたちの前には二つの方向が浮んでくる。自己開放的な写真と自己閉鎖的な写真という二つの方向である。(p.192)
一つの時代の中においても、一人の写真家の中においても、この二つの方向は、同時にあらわれていることもあるし、時をへてあらわれることもある。いやしくも作品の名に値いする写真であれば、すべての写真は、この二つのどちらかに分類できるともいえる。(p.192)
二つの方向を説明する例として挙げられていたのが、「大阪の生んだ偉大な写真家」安井仲治(1903-1942)の作品です。先ほど引用したテキストにも名前が出ていましたね。
安井仲治の「自己閉鎖的な写真」―「蛾」
ぼくに言わせれば、安井さんの自己閉鎖的な写真の典型的な作品である。(p.192)
安井さんのお子さんが入院していた病院で写したものだそうだが、(p.193)
モチーフの蛾と安井さんの気持が一分の隙もなくからみ合って、作品〝蛾〟は安井さんの暗い不安な気持を、永遠に語り続けている。(p.193)
この写真のことかな。
「安井仲治ポートフォリオ」より、蛾(二)(1934)|国立美術館
自己閉鎖的な写真はそういう個人的な、求心的な精神状態から生まれる。(略)それは頭を垂れて、自分の精神の内側を見つめる写真であり、独りぼっちの写真である。(p.193)
安井仲治の「自己開放的な写真」―「検束」ほか
その反対が、自己開放的な写真です。
自己開放的な写真は、社会的な、遠心的な精神状態から生まれる。(略)それは自分のことよりも他人のこと、世のなかのことを憂え、憤り、喜ぶ精神の豊かさがみちみちている写真である。(p.194)
安井さんにはまた〝メーデー〟という作品が二点ある。〝検束〟という作品が一点ある。〝ガード下〟という作品が一点ある。それらはすべて自己開放的な写真の典型的な作品である。(pp.193-194)
土門はこれらを、
明治以来の日本の写真文化史上、それらの作品をしのぐほどの芸術的に香りの高い、社会的に内容の深い作品は、他に何点もないであろう。(p.194)
それらの作品は、あの治安維持法時代の警察政治の暗さを、今に伝えて余すところがない。最も鋭どい、そして深いリアリズムなのである。(p.194)
と、べた褒めしております。
そのひとつ「検束」がこちら。
「安井仲治ポートフォリオ」より、検束(1931)|国立美術館
べた褒めすると同時に、
ぼくはそれらの作品をはじめて見た時、眼頭が熱くなった。彼も写真家ならばぼくも写真家である。どうしてぼくにはこんな写真が撮れないのかと、口惜しかったのである。そんな口惜しさを感じたのは、ぼくの二十年間の写真家生活で、後にも先にもその時一度だけである。(p.194)
と、強烈なライバル心を燃やす土門拳なのでした。言われてみれば、影響を受けているような気もしたりしたり。
学生へのエール
土門は
もちろん、ぼくは、自己開放的な写真こそが今後の決定的な方向であると信ずるものである。(p.195)
としながらも、
二つの方向のどちらを選ぶか、実際問題としてはそんなに簡単でないに違いない。(p.195)
どうか、真剣に反省し、研究して頂きたい問題である。(拍手)(p.195)
と結んでいました。
初出情報:『フォトアート』1954年11月号
土門リアリズムの反省(1965)
最後に、1965年の講演録からです。
ぼくは、昔、リアリズム、リアリズムと朝から晩までいってアマチュアをだましたような時代があった。
「だました」て、あーた。つづき。
ぼくだけでなく、ぼくの影響を受けたようなアマチュアが、みな乞食みたいなものばかり撮ったんです。(略)一部の批評家や保守的な写真家から土門のリアリズムは乞食写真だと悪口をいわれた。(略)それでぼくは妙な停滞を感じたものだから、第一期リアリズムは終ったと活字にして宣言したんだ。(略)とにかくやりきれなくなってそういったわけです。(p.393)
少し隔てて、土門の「リアリズム」像がやや詳しく述べられていました。
それでリアリズムというときに、ぼくは社会的リアリズムという言葉を使ったんです。今日ただいまの庶民の状態、現実というものを対象に選んで、それを写す。そのカメラワークを通じ、あるいは写真の仕上げなり発表なりを通じて、その写真を撮ったアマチュア自身が、社会の現実にすこしずつ目覚めさせられていくんじゃないか。それでぼくは社会的リアリズムといったんだけれども、これは完全にごまかしだんたんです。(p.394)
「完全にごまかし」て、マジすか。つづき。
本当はぼくはそのときに、社会主義リアリズムといいたかったんです。しかし(略)、たくさんのアマチュアはこわがって逃げるんじゃないか。またカメラ雑誌もとてものせきれないだろう。そういうような状態だったんです。これはどうもしようがなかった。(p.394)
「社会的」と「社会主義」とでリアリズムの様相がどう違ってくるのか。文意を斟酌するにはより精細に時代背景もふまえないといけない気もしてきましたが、ここは大ざっぱに、土門による一種の方便だったと受け取っておきます。
初出情報:『フォトアート』1965年12月号
まとめ
まとめると、土門拳は、
- いま・ここの現実を対象とし
- 利害打算を離れたアマチュアリズムを尊びつつも
- なお「見せるもの」としての写真を指向した
写真家だったと言えましょうか。
昨今の「インスタ映え」思想の隆盛に、土門なら今ごろ……と、「もしナンシー関が生きていたら」式のクソダサい着地になるのはイヤなので、ここまでの語録に見られる議論をまるパクリして
- しばらくルール・マナー面を中心に大中小の軋轢は生むでしょうが、押しつ戻りつでどんどん極めればいいですよ。
を、自身の「インスタ映え」基本見解とします。
そんなところです。
コメント