こんにちは。「戦没者追悼式に寄せて」シリーズの3回目です。
前回のあらすじ
前回の記事では、全国の自治体での戦没者追悼式の標柱に、それぞれ何と書かれているのかを調べました。Google 画像検索を使って雑な大調査を行った結果、次のことがわかりました。
- 日本政府を筆頭に、圧倒的多数は戦没者之「霊」派
- 戦没者之「霊位」派は3例。なぜか全て熊本県
- 調査前は完全ノーマークだった、戦没者「追悼之標」派がけっこういた(全18例)
かつては「追悼之標」派だった日本政府
調べていて面白いことがわかりました。戦没者追悼式における「霊」派の代表的な存在である日本政府ですが、かつては「追悼之標」派だったのです。
全国戦没者追悼式は、閣議決定により1952年の5月に第1回が行われました。このときの画像を見ると、柱の上部は幕に隠れて読めませんが、下側は「戦没者追悼之標」と読めます。
第1回全国戦没者追悼式(1952年)※画像はWikipedia 全国戦没者追悼式より
その後厚生省の主催を経て、1963年から日本政府の主催となります。この年の追悼式の標柱も、「全国戦没者追悼之標」でした。毎日jpのサイトに画像がありましたので引用します。
全国戦没者追悼式(1963年)※画像は毎日jpより
日本政府の「霊」派への転向は、1975年
それが戦没者「之霊」となったのは、1975年のことです。三木武夫内閣でのことでした。
公益社団法人 創玄書道会のサイトにある金子鷗亭 年譜から抜粋します。同会の創始者であるこの方が、戦没者追悼式の柱に字を書くお仕事をされてらしたようです。
- 1952年 46歳 4月、「全国戦没者追悼之標」揮毫。
- 1963年 57歳 8月、「全国戦没者追悼之標」揮毫(以降歴年)
- 1975年 69歳 8月、「全国戦没者之霊」標柱揮毫(以降平成5年まで)。
以上の記述でも、1975年に標柱に揮毫する文言が変わったことが確認できます。
1976年の国会で行われた、「霊」に関する議論
この変更に関して、翌1976(昭和51)年8月12日の、第77回国会・参議院内閣委員会で質疑がありました。この情報を記載していた「げんきにたのしくブログ」に謝意を表します。
国会会議録検索システムから委員会の議事録を探し、該当する部分を引用しながら以下にまとめます。
第1ラウンド:社会党議員 VS 厚生官僚
質問者は、日本社会党の野田哲・参議院議員です。
毎年武道館で式典が行われている。昨年突如として、あの式典の正面に、どう言うのですか、掲げられているあれですね、いままではずっと長年「戦没者之標」という表示で行われていた。これが昨年突如として「戦没者之霊」というふうに変わった。この理由は何ですか。
「正面に掲げられているあれ」とか、戦没者「之標」だとか(正しくは「追悼之標」)、言葉遣いが雑ですが、ともかく「なんで変わったのか」と問いが出されたわけです。
回答するのは、柴義康・厚生省援護局庶務課長(当時)です。既に当時の段階で官僚語が発達しきっており、回りくどいことこの上ないので、大事なとこだけを引きます。
会場におきまして戦没者に黙祷をささげ、あるいは献花をいたします場合に「追悼之標」という表示では何かしっくりしないという戦没者の遺族の方々の意見がございまして、「霊」に改めたというふうに聞いております。
不可解です。遺族の方々が「追悼之標」ではなんかしっくりしないって言うからって、それだけの理由で変えてしまうのでしょうか。しかも、前例踏襲の大好きな人たちがですよ。真相はきっと別のところにあるに違いないと疑ってしまいます。
ただ、裏の理由を勘ぐりだしたらきりがないので、ここは額面どおり承っておきます。
つづく質疑では、厚生省への変更の指示は、政府から、すなわち内閣から出されたとの回答がされています。
そして、「霊」は特定宗派に当たる(野田)、いや当たらない(柴)の問答がひとしきりあり、いったん別の議題へ移ります。
第2ラウンド: VS 官房長官
午後の審議に入り、野田哲議員は再び、なんで「霊」に変えたのかという同じ質問を、今度は井出一太郎・内閣官房長官にぶつけます。
井出官房長官の回答は次のとおりでした。
国民一般の常識からいたしますれば、「戦没者之霊」ということは、むしろこの方が常識にかなうと申しましょうか、「標」というのは何か無理があるのではないか。大方の世論も、むしろその方がふさわしいというふうな声もございまして昨年そういうふうに変更をして儀式を行ったと、こういうふうに私は承知をしておるわけでございます。
これを受けた野田議員は、大方がそうだからと変えられては困る。「霊」への変更は、少数者の信仰の自由を否定する行為だ、と応酬します。
私の見解を差し挟みますと、井出官房長官が《「標」というのは何か無理があるのではないか》としていることの、その見立て自体に無理があります。現に前の記事で見たとおり、「標」で無理なく開催している自治体が少なくとも18ありました。
厚生官僚から官房長官へと相手を変えて、またも「霊」が宗教に当たる、いや当たらないのひとくだりがありーので、野田議員の次の発言でこの論議は終わります。
官房長官、言葉じりじゃないけれども、宗教的でない行事としてやっているからいままで「標」という字を使われていたんですよ。「霊」というものは使わない宗教もあるんです。だから「霊」という字を使ったということは宗教的になったということなんですよ。そのことを指摘をして、これはやはり検討されることを強く要請をして、私時間も参りましたので終わります。
野田議員の検討要請に内閣が応えたかどうかは、議事録だけでは詳らかでありません。事実として言えるのは、戦没者「之霊」がその後変更されることはなく、現在に至っているということです。
私の意見
「霊」という言葉を使うことで、追悼式が宗教的行事になるのかならないのか、それが特定宗派の宗教に当たるのか当たらないのかだとかは、言ってしまえば言葉じりの議論であって、些末な事柄です。
どれだけ注意深く、疑わしげな臭う部分をかき分けかき分け取り除いて、戦没者追悼式を「無宗教」という形式の下で執り行ったところで、それが宗教行事であることに変わりはありません。
「死者を悼む」という活動が宗教行事にならない理由が、私には思い当たりません。はたしてそうした活動が、宗教から(と言って悪ければ何らかの信仰心からと言ってもいいですが)画然と離れて存在しうるものでしょうか。
類似する議論で考えてみると
別の似た議論で考えてみます。
それはちょうど、風俗嬢を相手にクンニをするかしないか、という議論に似ています。
いろいろ解釈は分かれそうです。
下半身侵攻の自由を侵すとか侵さないとか、性教分離に反するとか反しないとか、大方の世論も、むしろその方がふさわしいというふうな声もあるとかないとか。
ただいずれにしても、性風俗業を活用していることに変わりはありません。
つづく。
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