サッカー日本代表、本田圭佑です(ウソ)。
「歴代代表監督での起用回数はザックがダントツ」
これ何かわかります?
「伸びしろ」ですね~
平成の日本語「伸びしろ」20年史・シリーズ要旨
「伸びしろ」が一般的な日本語になったのはここ20年のことです。昭和以前の新聞には一度も出てきません。
「伸びしろ」20年略史
「伸びしろ」の歴史を、その用例の中心地であるサッカー界になぞらえて述べると、こうなります。※敬称略
- 岡田武史が「伸びしろ」を保持(1995~)
- 前線へフィード(2010)
- 矢野大輔が受け「伸びしろ」スルーパス供給(2010~2014)
- 本田圭佑が「伸びしろ」シュート(2011~)
- じゅんいちダビッドソン「伸びしろ」ごっつぁんゴール(2015)
シリーズ第1回の記事:平成の日本語「伸びしろ」20年史(1)「本田圭佑」篇(2015/09/18)で、まずは4. 5. あたりについて述べました。
グラッチェ
画像は、グラッチェ ミラノ|じゅんいちダビッドソンのワールドクラス(2015/04/24付)より
要約:Executive Summary
日本語の「伸びしろ」史を語るうえで外せない最重要人物とは、岡田武史さんです。
画像はwww.fcimabari.comより
なぜなら、平成の日本語「伸びしろ」を、記録で確認できうる限り誰よりも早く使いこなしているからです。
まさに「伸びしろ」マスターです。
「伸びしろ」の発見
「伸びしろ」が世間一般に発見されたのは、今(2016年3月)からせいぜい10年ほど前のことです。
「2005年前後から」(大辞泉 2012)
コトバンク「伸び代」>デジタル大辞泉の解説では、「補説」で
平成17年(2005)前後からスポーツ界で使われ、多方面に広がった。
としています。
記述は2012年改版の「第二版」がベースのようです。
「最近目にする」(読売 2006)
ヨミダス歴史館(読売)、聞蔵II(朝日)の2つの新聞記事データベースを使って確認しますと、2006年2月10日付の読売新聞夕刊(東京版)に、
最近主にスポーツ記事で「伸びしろ」という言葉を目にします。本紙運動部デスクによると、基本的には若い選手に対して将来が期待できるという意味で使う言葉だそうです。
出典:[デイリーヨミウリ記者のコレって英語で?](92)伸びしろ
と、「伸びしろ」に注目した記事がありました。
伸びしろにタイムラグあり?
ただ、そこから過去2003~2005年の3年分をさかのぼって「伸びしろ」用例件数の推移を見てみても
- 読売新聞:3→ 10 → 12件
- 朝日新聞:14 → 13 → 20件
で、量的に目立つというほどの頻度には思えません。
他媒体の確認が十分でないところで推測でものを言いますが、一般紙の常として、雑誌・Web等の他メディアで流行を見せていた「伸びしろ」を取り入れるのには比較的慎重だったと考えられます。
伸びしろのルーツ・サッカー界
辞書の補説では「スポーツ界で使われ」となっていました。ひと口に「スポーツ界」と言いますが、では、そのルーツはどこなのでしょうか。
答えはサッカー界です。
聞蔵II(朝日)、ヨミダス歴史館(読売)の2つの新聞記事データベースにより当社で確認した「伸びしろ」初出用例は、両紙(誌)ともサッカーにまつわる記事でした。
そして、この2つともに岡田武史さんが深く関わっているのです。
初出用例に見る、岡田武史さんの「伸びしろマスター」ぶり
当時の記事から、岡田さんの「伸びしろマスター」ぶりをご堪能ください。
アエラ 1998/06/08号
「聞蔵II」での「伸びしろ」初出は、1998年の週刊誌「AERA」の記事です。 ※強調・下線は引用者。以下同じ
日本代表の岡田武史監督は、「十七歳にしてはよくやっている、という言い方は失礼です。すでに日の丸を背負っているんですから」
一人前扱いにしたうえで、ひと言、「彼にはまだ伸び代があります」と付け足した。伸び代は飛躍への可能性を秘めた若者の特権である。
出典:市川大祐 サッカー 世界の入り口に立つ18歳(この人を見よ)|AERA 1998/06/08号 p.086
先掲した記事の本文中にあった説明「基本的には若い選手に対して将来が期待できるという意味で使う言葉」そのまんまの意味で使われています。
1998年といえば、フランスで開催されたFIFAワールドカップに代表チームが初出場した年です。
1998年、すなわち、一般紙が注目するよりも7年ばかり前の時点で、既に岡田武史さんの「伸びしろ」は仕上がっていました。
のびしろですね!
ちなみに、朝日新聞本紙紙面での「伸びしろ」は、半年ばかり後、1998年12月19日付の
- 球界の若手を大舞台に(スポーツつれづれ草)【大阪】
という野球記事が最初です。
読売新聞 1995/11/25付
「伸びしろ」初出の時期をいえば、朝日新聞より実は読売新聞の方が古いのでした。AERAでの初登場から2年半ほどさかのぼります。
サッカー日本代表監督として(略)続投要請を受諾した加茂周監督(56)は二十五日記者会見、(略)フランス大会出場に向けて強い意欲を示した。
出典:「W杯出場へベスト尽くす」 サッカー日本代表の加茂監督が続投会見(1995/11/25付)
という記事です。
記事によると、翌年のアジアカップ(1996年12月)の位置づけを聞かれ、加茂周監督(当時)はこう答えています。
アジアカップで一〇〇%の状態になったチームは、W杯予選で苦しくなる。その時点でまだ伸びしろがある八〇%ぐらいに持っていき、その状態でアジア杯王者を目指す
この用例が、朝日・読売両紙の記事データベースで確認できる、日付の最も古い「伸びしろ」です。
それでも、ほんの20年ちょっと前の話です。日本語の長い歴史からすれば、「つい最近のこと」と言えましょう。
伸びしろですね!
加茂周さん、あなたの伸びしろはどこから?
ここでひとつの疑問が生まれます。その疑問とは、
- 加茂周さんは、なぜこの時期に(新聞紙面から言えば)いきなり「伸びしろ」と言い出したか?
です。
Wikipedia「加茂周」の記述を元に、年表形式で略歴を整理しておきましょう。
- 1967年 ヤンマーディーゼルサッカー部(現・セレッソ大阪)での選手生活を経て、指導者に
- 1974年 日本人初のプロ契約監督として日産自動車サッカー部(現・横浜F・マリノス)の監督に就任。
日本サッカーリーグ1部優勝1回、JSLカップ優勝1回、天皇杯全日本サッカー選手権大会優勝3回の強豪に - 1993年度 横浜フリューゲルスで天皇杯に優勝
- 1994年12月 サッカー日本代表監督に就任
- 1995年11月 初の「伸びしろ」発言
- 1997年10月 1998 FIFAワールドカップ・アジア最終予選の途中で更迭
「伸びしろ」の件も加えておきました。
ここで言いたいのは、加茂周さんは1995年の「伸びしろ」よりずっとずっと前から、その発言が新聞紙面に載って何ら不思議のないポジションにいたということです。サッカー界初のプロ契約監督として、あるいはJリーグチーム監督としてのコメントが、何度も新聞紙面を飾っていたことでしょう。
しかしながら、その時代の加茂さんの口から「伸びしろ」の言葉が出ることはなく、日本代表監督に就任してからも、1年経ったあたりでようやくのこと「伸びしろ」が登場するわけです。
この事実が意味することはなんでしょうか?
その「伸びしろ」、岡田武史コーチ発信では?
つまり1995年11月の会見で発した「伸びしろ」は、加茂周さんにとって自分発信の言葉ではなかった、ということです。
では誰の言葉かというと、まず間違いなく岡田武史さんです。
同様にWikipedia「岡田武史」を元に、現役引退後の「伸びしろ」までのキャリアを年表にするとわかります。
- 1991年 古河電工のコーチに就任
- 1992年 ドイツへコーチ留学
- 1993年 ジェフ市原でコーチを務め、清雲栄純監督の下で主にサテライトチームに携わる
「ドーハの悲劇」テレビ中継のスタジオ解説 - 1995年 サッカー日本代表コーチに抜擢
この事実だけで決めつけますが、1995年11月の会見で、翌年のアジアカップを見通して「伸びしろのある80%ぐらいにもっていく」と答えた加茂周監督の言葉は(最終的な言責は加茂さんにあっただろうとはいえ)、元をたどれば岡田武史コーチの発言・見解にほかならないのであります。
その後、1997年10月の加茂監督更迭後に
岡田は「その時点でのチームを把握していること」が重視された結果として、まず代理監督として指名され
(Wikipedia 岡田武史)
という経過をたどることからも、岡田コーチの影響は明らかなのであります。
伸びしろですね~
「伸びしろマスター」の無名時代
1995年当時、岡田武史さんはメディアに発言が載るようなポジションではなかったと言えましょう。
後年の講演で、代表監督就任時(1997年)のことをこんなふうに語っています。
僕はあの時も急に監督になったので、有名になると思っていなかったから電話帳に(住所や電話番号を)載せていたんです。
出典:岡田武史氏が語る、日本代表監督の仕事とは (3/7)|[堀内彰宏,Business Media 誠](2009/12/14付)
監督になる前は有名人ではなかったという自己認識です。
脅迫状や脅迫電話が止まらなかったですよ。家には変な人が来るしね。僕の家は24時間パトカーが守っていて、「子どもは危険なので、学校の送り迎えをしてください」という状況で戦っていました。
本当にありとあらゆることがあって、テレビで僕のことがボロカスに言われているのを子どもが見て泣いていたりとか、家族も本当に大変な経験をしました。自分自身もそんな強い人間ではないですから、のたうちまわっていましたね。自分の部屋でものを投げたりすることもありました。
とまあ、すさまじい話で感ずるところは多々あるのですが、そちらは別の機会に。
以上、岡田武史さんこそが、日本語「伸びしろ」史上における最重要人物であるというお話でした。
補足と次回予告:「伸びしろ」司令塔・矢野大輔篇
冒頭で述べた「歴代代表監督での起用回数はザックがダントツ」について補足します。
以下は、読売新聞の新聞記事データベース「ヨミダス歴史館」で、岡田さん以降の歴代の監督名と「伸びしろ」を組み合わせて検索したヒット件数です。
- (2015年調べ)
- トルシエ:0
- ジーコ:2
- オシム:0
- 岡田:2
- ザック:10
- アギーレ:0
- ハリル:1
全般に意外と低調でした。岡田さんの「伸びしろ」も案外少なかったです(所見は記事を分けて述べます)。
そんななか、ザッケローニ監督の「伸びしろ」10件という数字が異彩を放っています。ザックジャパンは伸びしろジャパンでもあったのです。
ここで活躍した「司令塔」こそが、矢野大輔さんです。
本田圭佑選手を筆頭に、この時期の日本代表チームメンバーの「伸びしろ」は、すべて矢野さんから供給されたものです。
つづく
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