「うかつ」で「いいかげん」な「ニヤニヤ人間観」宣言

こんにちは。デザイン芸人「デザインや」です。

この記事で言いたいこと

私の目指す人間観は「ニヤニヤ」です。

人の世のあれこれをニヤニヤと観察し続けたいです。

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※写真と本文は関係ありません

ニヤニヤ人間観のすすめ

よどみに浮かぶうたかたのごとく、人の世には日夜いろんなことが起こります。

何事であれ、そんなうたかたに臨む基本姿勢は「ニヤニヤ」でありたいものです。

サブカテゴリーは「うかつ」「いいかげん」

「ニヤニヤ人間観」を下支えする態度は

  • うかつ
  • いいかげん

です。

実を言うと、いずれも情報発信する場面で、私が苦手にしているところです。

わざわざ定義して宣言するなど、本当にうかつでいいかげんな態度で情報発信する人間ならば絶対しないはずです。苦手にしている証左そのものですわね。

たいへん苦手としていますが、ともかくも、こうした障壁を乗り越えて、ニヤニヤした人間観を確立していきたいのであります。

「ニヤニヤ人間観」はパクリ

指摘する人もいないでしょうが先に言っておきます。この「ニヤニヤ人間観」、わたくし発祥ではございません。人の話のパクリです。

プチ鹿島さん、パオロ・マッツァリーノさん、お2人の記述からパクってこしらえました。

端的には、次のとおりです。

「ニヤニヤが足りない」by プチ鹿島

最近「ニヤニヤ」が足りないのではないか。

年明けから大きな芸能ニュースが次々に飛び込んできて格好の話題なのだけど、どこか世の中がピリピリしている。いきり立っているように感じる。

出典:大人に「ニヤニヤ」が足りない|プチ鹿島のソースは東スポ!(2016/01/21付)

あと、大事なところを引用します。

ニヤニヤと冷笑の違い

「ニヤニヤ」は「冷笑」とはちがう。冷笑は相手を見下すが、ニヤニヤにはどこかうかつさが漂う。

それはうかつだが、どこか惻隠の情が漂う。あやまちを犯した人間を即アウトとはしない、大人の「ニヤニヤ」である。

「人間なんてこんなもの」という受け身

我々はたとえ芸能のことでも問題の是非を四六時中目の前に提示されるマジメな環境にいる。それは否定しても意味がない。

受け手の態度として「芸能人なんてそんなもの」は「人間なんてこんなもの」にも通じる受け身だと思うのだ。

引用元は短いコラムですので前後の文脈はリンク先をご覧ください。

「人間いいかげん史観」by パオロ・マッツァリーノ

もうひとつのパクリ元は、パオロ・マッツァリーノさんが、「スタンダード 反社会学講座」サイト開設以来提唱し続けている「人間いいかげん史観」です。

Webサイトには

引用などをする際は、できるだけ文庫版を参照してください。

と注意書きが付いているので、ポイントだけ。

私は、基本的に人間というのは、いいかげんで適当で間抜けな存在だと考えています。だからこそ人間という生き物はおもしろいのです。

出典:第7回 続・日本人は勤勉ではない~本当に新しい歴史教科書・PART2~|スタンダード 反社会学講座

テキストの「正本」はこちらです。

読んでないけど(いいかげん)。

史観=人間観

マッツァリーノさんの使う「史観」という用語は採用しませんでした。史観=歴史観もまた、人間観に吸収されると考えたためです。

歴史とは、すべからく人間の所業の記述であります。

歴史には「宇宙の歴史」「地球の歴史」「生物の歴史」など、人間がほとんど関与しないものもありますが、それらとて、記述するのは人間です。

その事実を鑑みれば、歴史にはおのずと記述主体の人間観が反映されると言って差し支えないかと思います。

もうひとつ、「脳内コメンテーター」の回答を反映した結果でもあります。詳しくは後述します。

「ニヤニヤ人間観」を知るためのブックガイド

うかつさも加えつつ、関連書籍を3冊紹介します。

#1:「受け身」の教養を身につける

プロレスの本ではなく、教養の書です。

ツイッターなどSNSでは何か問題が生じると「終わりのない学級会」が開催される。(p.44)

かかる膠着状況ないしは閉塞状況、平たく言えば「地獄」に、一筋の「蜘蛛の糸」を垂らすヒントが詰まっています。

また、最近の鹿島さんの思考は本書からさらに進化/深化していて、新著が出るのを楽しみにしているところです。

#2:「人間いいかげん史観」による書

マッツァリーノさんの著書は、どれも「人間いいかげん史観」に貫かれています。

紹介はどれでもいいと思いますが、近著をひとつ。

#3:脳内コメンテーター

プラスもう1冊です。

私見では、ヒトという種の原初の姿に最も近い人たちです。

彼らがフォーカスしているのは常に「いま、ここ」です。というか、それ以外にありません。過去記事「ピダハンの区切らない話【読書メモ】」(2015/10/16)にも書きましたが、彼らはたとえば「数」も「色の名前」も持っていません。思うに、「いま、ここ」には必要がないからです。

この本を読んで以来、私が何かものを考えるときには「ピダハンだったら、どう言うかな」と、しばしば頭の中で想像をめぐらせています。

言わば「脳内コメンテーター」です。

たとえば「歴史観」について私の「脳内コメンテーター」に聞いて返ってきたコメントは、

歴史ってなに?

でした。用語として「史観」の採用を見送ったのはそのためです。


以上、こうした「ニヤニヤ人間観」に基づいて、あれやこれやのうたかたに対して、ブログにしていく所存です。

「ニヤニヤ人間観」・非公式イメージソング


うかつさと いいかげんさと

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