こんにちは。
雑なものの考え方は、案外と革新的でイノベーティブな発想の源かもしれない、そんな2題です。
テーマと同様、記述も雑に進めます。
1.肩が凝る
「肩が凝る」という表現は、夏目漱石が小説『門』で最初に使ったという説があります。それまで肩は凝るものではなかったというのです。
漱石以前にも、当該部位の圧痛や筋緊張を起こす症状はあったでしょうけれど、それは「肩こり」と呼ばれていなかったわけですね。
しかしながら、Wikipedia「肩こり」の項では、『門』発表とほぼ同時期(1910年)の別の用例が引かれていますから、漱石を「肩こり」の創始者とする説は、根拠が弱いです。
ただ重要なのは、夏目漱石が初出であるか否かにかかわらず、明治末期に「肩は凝るものだ」という認識が発見され、なるほど肩は凝るよなと認知されて、現在に至っているというその事実です。
肩が凝るという言い方が、うまくツボにはまったのだと言えましょう。肩こりだけに。
でもそれって、雑なものの考え方か?
「肩が凝る」という表現が生まれ定着したことって「雑なものの考え方」に由来する例なのか? と訝る向きもありましょう。
そのとおりです。雑にいってます。
2.一色単
たとえば「目的と手段を一色単にしている」みたいに、「一緒くた」のことを「一色単」と書く人がいます。私が初めてこの語句を見たときは、何を言いたいのか、意味を理解するのに少し時間がかかりました。
リアルな用例を知るには、Twitter で「一色単」とツイート検索するのがいいでしょう。
誤用だ
「一色単」は誤用です。間違いです。
こんな言葉、どの国語辞典にも載っていません。全部の辞典を調べてはいませんが、ないのはわかります。あれば教えてください。
それに「一色単」をGoogle で検索すると、上位10件のうち9件が、「一色単は間違い」という趣旨の記述です。
「一色単」使用者のうち、「被害者」は少なそう
「被害者」は適切でない表現ですが、便宜上そう呼んでおくことにします。
「一色単」という言葉を使っている人の中に、「被害者」は少ないと思います。ここでの「被害者」とは、「一色単」という誤った用例を目で見て、間違って覚えてしまった人を指すことにします。
想定される被害者の事例としては、「一緒くた」という言葉を知らないところで、その人にとって何らかの権威である文章の中で「一色単」が使われていて、それをそのまま真似して使ってしまっている人。といったところです。
ただそうは言っても、そんなケースは可能性の上の話であって、ごくまれな気がします。データはないですが。
おそらく大半が「加害者」
おそらく「一色単」使用者の大半は、「加害者」側の人間なのではないでしょうか。
すなわち、誰かが「一緒くたにする」と言っていたのを耳で聞いて、勝手に「いっしょくたん」→「一色単」と、おかしな理解をしたまま使ってしまっている、ということです。
いずれにしても、雑な思考の持ち主
被害者であれば若干ながらまだ同情の余地はあるものの、「一色単」を使っている人というのは、自分で辞書を引くこともなければ、ネットで検索してみることすらもない人たちです。そこは、被害者も加害者も同じです。
以前に書いた記事の「炎天下の中」と言ってしまう人が、頭が悪く見える理由で、私はこのような態度を言葉を大事にしない態度だとしました。別の言い方をすれば、雑な思考回路の持ち主と言ってもいいと思います。
否定しようとしたのだが
しかし私はここで考え込んでしまいました。
というのも、「一色単」が間違いであると追い込んで主張したいのですが、その根拠が、
- 辞書に載っていない
- まともな人は使っていない
- 検索でも、上位は「間違い」であることの説明が優勢
ぐらいしか、要は「前例がない」ことぐらいしか見つからないのです。
「前例がないから認めない」は、私の大嫌いな発想です。そんなことを言う相手には、「ならば、明日という日は前例がないから、明日あなたが生きるのも認めない」と、言い返したくなります。
だが新しい
さて、ここであらためて先入観なく「一色単にする」を眺めていると、「まあ、それでもいいんじゃないの」と思わせるだけの道理と新しさが感じられてきます。それでも、私が生きているあいだ「一緒くた」が廃れることはないと断言できますので、私は終生「一緒くた」の側だけを使いますけれども。
ひょっとすると次世代の国語辞典には、「一緒くた」の項に「一色単とも言う」と補足が入り始めることも、あるやもしれません。
それを目指して、がんばれ若者!
少なくとも、麻雀の新しい役の名前になるよりは、可能性がありそうですよ(混一色または清一色を単騎待ちであがれば一翻がつく、みたいな)。
一色単にするな。
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