「TOKYO 1964」を疎んでいた人たちコレクション

こんにちは。

実体験を持つ高齢者層のあいだでは、東京オリンピック(1964)のことを

世界の一流国入りした日本、戦後の荒廃から完全に立ち直った日本を具現化するもののひとつだったんです。あそこまで国民が一丸になれたイベントは東京オリンピックだけだと思います

東京オリンピック聖火最終ランナー 坂井義則氏|シリーズ連載「東京オリンピックから40年」|joc.or.jp(2004/04/22付)

みたいに言う人が優勢のようです。

けれども、『1964年の東京オリンピック』に収録されていた文章を読んでいたら、案外一丸でもありませんでした。

同書から「TOKYO 1964」をどこか疎んでいる文章を拾ってみました。初出情報は同書の記載によります。

なお挿入している書影はイメージです。引用した文章とは無関係です。

スポーツに無縁で疎ましい

いったい私はスポーツにはそれほどの興味はない。

と書いたのは、松本清張(1909-1992)です。

松本清張の場合

松本清張「憂鬱な二週間」(『サンデー毎日』一九六四年九月十五日臨時増刊号)からです。

「スポーツ」の出自がほの見える文章でした。

私たちの青年時代に若い人でスポーツが好きなのは、たいてい大学生活を経験した者だった。学校を出ていない私は、スポーツをやる余裕も機会もなかったし、理解することもできなかった。

野球などというのは、めぐまれた家に育って大学にやらせてもらっているノラクラ学生のすることだと思っていた。

こんど、東京にオリンピックがはじまってもなんの感興もない。何かの理由で、東京オリンピックが中止になったら、さぞ快いだろうなと思うくらいである。

次のあたりも、松本の面目躍如という感じがします。

東京の道路が整備されたことでオリンピックの効用を説く人がある。だが、これは本末転倒でオリンピックはそのきっかけにすぎない。何か大きな行事でもないとたち上がれないのが役人の悪いクセで、別にオリンピックがなくても、やる気さえあれば道路の整備はやれたのである。

また、オリンピックが世界の平和のために貢献するというが、こういう観念の功徳も私は信じない。このようなうたい文句で世界の現実から目をふさごうとするなら、オリンピックも麻酔的な役目しかなく、かえって危険である。

ちらつく「政治」が疎ましい

スポーツはいいけど、見え隠れする「政治」がイヤという書き手もいました。

山口瞳の場合

たとえば、山口瞳(1926-1995)です。

オリンピックまであと一年、だそうである。

終ってしまった、と思っているのは、オリンピック関係の政治家、財界人である。(略)つまり、もう予算はきまってしまった。もう何も出てこないと考えていることだろう。

スポーツは自分でやるものだという考えが私のなかにある。(略)
しかし、スポーツに政治がからまることが、どうも面白くない。スポーツマン出身の協会のオエラガタという存在が面白くない。(略)体育関係者は先輩後輩という縦のツナガリが強固にすぎるように思う。それが面白くないよ。

山口瞳「江分利満氏のオリンピック論」(『月刊朝日ソノラマ』一九六三年十月号)

小田実の場合

「タクシーの運チャン」との会話を採録していたのは、小田実(1932-2007)です。

「わしがよんだわけじゃないからね」
しかし、オリンピックはひとりでかってにやってきたわけではない。

小田実「わしがよんだわけじゃない」(共同通信、一九六四年十月七日)

オリンピックが人々の心にうえつけていっているものを考えよう。

と、次の各点を挙げていました。

  • 滅私奉公
  • 選民思想
  • 公私の混同
  • 根性、気合いの不当な重視
  • 既成事実の重視、長いものにまかれろ
  • なにしろ外国のお客が来るのだから
  • 「たてまえ」と「ほんね」の分離

関連資料にあたり検証してみたいところです。

妥当性とは別に、「実ちゃん」らしいねえと、勝手にうきうきしてしまう文章でした。

「東京」の喧噪が疎ましい

東京の外から書いた文章を2つ紹介します。

中野好夫の場合

大会期間中、那須へ「逃避行」していたのは、中野好夫(1903-1985)です。

これだけの金、これだけの努力が、もしこの十年国民生活の改善、幸福の方へ向けられていたら、どんな結果が生まれていたろうか。東京の水キキン、糞尿地獄などは、もちろん苦もなく解消していたろうし、全国にわたる交通戦争だって、相当以上に緩和されていたはずだ。

1964年当時はまだ不十分であったろうとはいえ、現状を鑑みれば、解消、緩和されてきたとは思います。

東京を出てきてほんとによかったと思っている。すべてスポーツは大好きだが、その周辺はきらいなことばかりである。テレビ画像で、そのスポーツだけを純粋無難にみているにかぎる。

例によって気ちがいじみたアナウンサーの興奮と、それにしても露骨すぎるNHKの自己宣伝だけが玉にキズの雑音だが、これは、まあ、ゼイタクすぎる注文というものか。

中野好夫「オリンピック逃避行」(『朝日新聞』一九六四年十月十六日)

会田雄次の場合

関西の地から東京の喧噪を書いたのは、会田雄次(1916-1997)です。

オリンピックは、クーベルタンの言葉にあるように、その開催の栄誉はあくまで東京都のものである。その上、東京は国家の行事のような顔をして、七千億円もかけて高速道路などの便乗工事をやってのけて面目を一新してしまった。

なかなかに冷静な観察をしています。

どうも関西の私たちからみると、東京オリンピックは、役員も観衆も全くの田舎者である。

開会式で泣いている大勢の観客を見た外人特派員が、これほど感激して主催されたオリンピックは史上はじめてだと報じたのには、ちょっぴり皮肉が入っているはずである。

会田雄次「大阪からみたオリンピック」(『朝日新聞』一九六四年十月十九日)

まだ東海道新幹線も開通直後であり、現在と比べて東西の心理的距離はあったかと思います。

ベスト「疎み」賞

同書中でのベスト「疎み」賞は、こちらです。

ところで、やはりオリンピックは、やってみてよかったようだ。富士山に登るのと同じで、一度は、やってみるべきだろう。ただし二度やるのはバカだ。

菊村到(1925-1999)「やってみてよかった」(『読売新聞』一九六四年十月二十四日)

読んでいて「ははは」と変な息がもれました。

おわり

コメント

  1. 左右 より:

    今の方はイメージしにくいかもしれませんが、当時はオリンピック自体かなり違いますね。

    ・プロ選手は参加できません。

    ・お金を目的にしていません。

    それでもやる1964時代と金勘定で考えている今とでは、論客の頭も随分違ってそうです。

  2. ヤシロタケツグ より:

    左右さま
    コメントありがとうございます。

    ですよね。ご指摘のとおり、プロを排除していた1964年当時のオリンピックはかなり違っていました。実況の選手紹介でも「自動車の整備工」とか「婦人警官」とか、職業をやたら強調していました。

    そんな「アマチュアリズム」が行きづまり、大きく方向転換して成功したのが、1984年のロサンゼルス大会でしたね。以後の大会運営は、ロス五輪のビジネスモデルが基本になっています。このあたり、猪谷千春『IOC』(2013)に詳しかったです。

    「金勘定」で考えるかたわら、2020大会の組織運営が根っこの根っこで1964感覚そのままでいるのが、ダサいんですよね。

    成功の基準は「儲かるか?」 そこに尽きるのに。

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