こんにちは。引きつづき「事実無根」を考えます。
要約:「事実無根」と「否定」考
3つあります。
1.「事実無根」の悲哀
「事実無根」は、悲しい言葉です。
表面的な勇ましさとは裏腹に、言葉にまったく力がありません。逆効果ではないかとすら思えます。
2.否定はシンプルに
否定したいときは
- いいえ
- 違います
- ありません
これぐらいのシンプルな表現で、否定の主張は十分伝わると思うのです。
3.強く勇ましく、そして虚しい言葉はいらない
「事実無根」だけでなく、ことさらに何かを強調しようとする勇ましい言葉についても同様です。否定・肯定にかかわらず、不必要です。
否定あるある:「事実無根」と言いがち
人が自分にまつわる何かを否定したいとき、「事実無根」という言葉がよく使われます。
記憶に新しいところでは、東京五輪公式エンブレムがベルギー・リエージュ劇場ロゴの盗用であるとの疑いを受けて開かれた記者会見で、佐野研二郎さんが使われていました。
参考:「まったく似てない」「盗用は事実無根」デザイナーの佐野研二郎さん会見|産経ニュース(2015/08/05付)
事実無根とは
広辞苑(第五版)の語釈です。
事実にもとづいていないこと。根も葉もないこと。
「事実無根」とは、こういう趣旨を端的にまとめた四字熟語ということになります。
「事実無根」の無力
しかし「事実無根」の言葉は、面白いように無力です。
事実、佐野研二郎さんのケースでも会見での主張はまるで世間に受け入れられていません。
なぜでしょうか?
そこには「否定」の構造的問題があります。
無力化の成果かも
「事実無根」の言葉はこれまでに
- 本当に「ない」ときにも
- 本当は「ある」のに、それを隠すときにも
使われてきました。「事実無根」には2種類のケースがあると、世間はそれを経験的に知っています。
「ある」と「ない」との非対称
「ある」を主張するケースでも、そこは同じではないか? そんな疑問が起こるかもしれません。
いいえ。そうではありません。
「ある」の主張のしかた
「ある」と主張するには、一緒に「ある」の証拠を出せばいいからです。主張+エビデンスによって立証が可能です。
間接的アプローチしかない「ない」
ところが、「ない」を主張するとき、論証は間接的になります。
私の知るアプローチとしては、この3種類です
- 「ある」という事実は、これまで観察・報告されていない
- 「ある」を前提にすると、こんな矛盾が生じる
- 「ある」と同一の論理に従うと、荒唐無稽な別の主張が成立する
どれも間接的です。
「ない」を直接に証明することはできません。「悪魔の証明」とも言われるゆえんです。
違う言い方をすると、「ない」の姿とは、背景と区切られながら少しずつあらわれてくるものだと言えます。
悪用例:中傷
こうした「ある」と「ない」の非対称を悪用するのが、「中傷」です。
「ない」ことを「ある」と言い立てて人を攻撃する手段です。コストパフォーマンスに優れた方法であることが厄介です。
主張と言葉の相関は、案外低い
私の観察では、みなが思っているより、主張と言葉の強さの相関は高くありません。
STAP不正のケーススタディ
理化学研究所の内部調査で論文不正とされた研究ユニットリーダー(当時)小保方晴子さんの記者会見(2014/04/09)での発言
「STAP細胞はありまぁす」
を検討してみましょう。
主張は「あります」です。何も強調されていません。なのにこの主張が、厄介な力を持ちました。
その結果、「ある」の有効な根拠が皆無だったにもかかわらず、「論文にあるSTAPのような現象は観察できない」と確認されるまでずいぶんと尾を引きました。
「言い方」の違いに由来するのだろうか? そこが別途考えないといけないテーマかとは思います。
虚妄の強調
あるいはネットでは、自分の主張を強調しようとしているのかして
- 誰が見ても○○
- 誰一人として~~ない
- どう考えても××
式の記述がしばしば見られます。
全然説得力がありません。自身の考えは違っていたり、異なる見解を示せる場合も多々あるからです。
いらないです。
まとめ:否定のしかた
くり返します。
悪い例
何かを否定するときに
- 事実無根
- まったく~~ない
- 100%(120, 200,more)ない
式の、強く勇ましい言い方は無力です。
- 何の説得力も生みません。無用です。
- 周囲を面白がらせる効果しかないように思います。逆効果です。
私のすべらない話代表、秀雄小林もこう言っています。
勇ましいものはいつでも滑稽だ。人間の真実な運動が勇ましかったためしはないのである。(新興芸術派運動, 1930)
『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉―』より
世に見られる「事実無根」のありさまも、しばしば滑稽です。すべらんなあ~
望ましい否定のしかた
もしいつか、私が会見で何かを否定しなければならない機会があったなら、
- ありません
- 違います
のようにシンプルに否定することにします。
強調も同様
また、各種の強調語・強調表現についても、加えることで気持ちはこもるでしょうが、それで主張は補強されません。
余計な修飾を加えると、主張が濁るような気がしています。
こちらからは以上です。
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