「原爆」の登場まで、投下から2年近くを要していた話

こんにちは。

日本人はいつから、昭和20(1945)年に広島・長崎に投下された爆弾のことを「原爆」と呼ぶようになったのだろうか?

ふと疑問に思ったので、図書館で当時の朝日新聞の縮刷版を読んできました。

そんな雑な調査の結果報告です。

要約:Executive Summary

1.「原爆」の初出について

朝日新聞に「原爆」の語が初めて現れたのは、昭和22(1947)年7月30日付の紙面です。広島での三周忌法要を伝える記事でした。

広島・長崎への投下から2年近くを要しています。

2.「原子力」

ちなみに「原子力」の初出と比べてみると

  • 原爆:昭和22(1947)年7月30日付
  • 原子力:昭和20(1945)年11月8日付

ですので、意外にも「原爆」よりも「原子力」の方が歴史が古かったのでした。

広島・長崎の「例の爆弾」の呼び方に関する小史(1945-1948)

太平洋戦争(これも、後年の名称ですが)末期の1945年に、米軍機が広島・長崎の地に投下した「例の爆弾」。

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※Nagasaki, Aug. 9, 1945

その呼び方を、朝日新聞の紙面から拾ってきました。

カッコ内は使用が確認された年月日です。

  • 焼夷弾爆弾(1945/08/07)
  • 新型爆弾(1945/08/08-)
  • 原子爆弾(1945/08/11-)
  • 原爆(1947/07/30-)

以下、引用を入れながら詳述します。

引用部の漢字の字体は現代のもので代用しています。また、強調・下線は引用者によるものです。

第一報:焼夷弾爆弾(1945/08/07)

広島への投下翌日の第一報では、「焼夷弾爆弾」でした。記事は次のとおりです。

広島を焼爆

六日午前七時五十分頃B29二機は広島市に侵入、焼夷弾爆弾をもつて同市附近を攻撃、このため同市附近に若干の損害を蒙った模様である(大阪)

「若干の損害」がひどすぎますが、これも後知恵で言えるのであって、情報がないというのはそういうものだと心得ないといけません。

大本営発表:新型爆弾(1945/08/08-)

7日付の大本営発表では、前日広島に落とされた爆弾が、従来のものとは違うと認識されていました。

大本営発表を伝える翌8日付の紙面に「新型爆弾」が登場します。

広島へ敵新型爆弾

大本営発表(昭和二十年八月七日十五時三十分)
一、昨八月六日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり
二、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり

「新型爆弾」の時代(1945年8月)

8月半ばまでの交戦中の期間はこの「新型爆弾」が優勢です。

長崎の第一報も「新型爆弾」(1945/08/12)

長崎の第一報は、投下から3日後の8月12日付です。一報の段階から「新型爆弾」でした。

長崎にも新型爆弾

西部軍管区 指令部発表(昭和二十年八月九日十四時四十五分)
一、八月九日午前十一時頃敵大型二機は長崎市に侵入し、新型爆弾らしきものを使用せり
二、詳細目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込

戦時下ゆえ被害状況を過小に報じる傾向はあったでしょうが「比較的僅少」とはひどいです。

ナガサキの微妙な軽さ

ちなみに長崎への投下翌日の10日付の紙面トップは「ソ連 対日宣戦を布告」でした。

広島に比べて、当初から長崎の扱いが微妙に軽いのが気になります。

終戦の詔書も「新」押し

ちなみにポツダム宣言受諾を告げた「終戦の詔書」(テキスト:国立国会図書館)でも、

敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ

となっていて、爆弾の「新しさ」前面押しの路線です。

余談:ひどすぎる「対策」

現在の視点で過去を評する愚を承知で述べますが、同時期に報じられている、新型爆弾への「対策」がひどすぎました。

内務省による「新型爆弾に対策を確立」(1945/08/09付)では

火傷の惧れあり 必ず壕内待避

「新型爆弾に勝つ途」(1945/08/10付)では

屋外防空壕に入れ

です。

なんだそれ。気でも狂っているのか。

とにかく正気でないのは確かです。余談でした。

トルーマン声明:原子爆弾(1945/08/11-)

「原子爆弾」は、広島への投下後にトルーマン米大統領がホワイトハウスで発した声明を伝えた外電記事が初出です。

原子爆弾の威力誇示
トルーマン対日戦放送演説

チューリツヒ特電九日発

一 ポツダム会談に際し米英重慶三国共同で対日警告を発し條件を提出したが日本の拒否するところとなった、そのため日本に対し最初の原子爆弾が使用されたもし日本が降伏しないならば米国は今後も引続きこの爆弾を日本都市に投下するであろう

敗戦後しばらくは、この「原子爆弾」の時代です。

付記:これは事後宣伝

念のため触れておくと、上の声明で主張されている、原子爆弾が使用されたのは日本がポツダム宣言の条件を「拒否したため」という話はでたらめです。

以前記事にしましたので詳しくはこちらで。

3周忌になって:原爆(1947/07/30-)

「原爆」の登場には、投下から2年近くの時間を要しています。

初出は、昭和22年7月30日付のこの記事でした。

〝出家孤児〟原子爆弾二周年

[広島発] 原子爆弾第一弾の二周年をむかえて広島では八月六日の記念日ににぎやかな復興祭を行うが五日市町広島戦災児育成所では二十七日から原爆三周忌法要を、出家した〝五人の孤児〟を中心に行った。
所内の?心寺と名付けられている礼拝堂には赤い念珠を手首に八十名の孤児たちが父母の霊よ安かれととなえる読経の声が参詣者の涙をそゝつていた

「原爆」がまだ一般的でなかった傍証

昭和22年8月当時、「原爆」はまだできたての新しい言葉だったとみられます。

「原爆」の「初出」から10日ばかり後、先述の記事に感銘を受けたとおぼしき読者「東京・のぐち しげお=教員」さんによる投稿「出家孤児」が、朝日新聞「声」欄に掲載されていました(8月10日付)。

投書には「原子バクダン」が3回使われていましたが、「原爆」は一度も出てきません。

まだ「原爆」が普及する前の段階であったことがうかがえます。

原爆の時代(1947/08-)

以来「原爆」は徐々に、しかし確実に地歩を固めていきます。

米誌に原爆孤児の作文(1947/08/11付)

新式水素爆弾/原爆より千倍強力(1948/02/03付)

といった具合です。

1年後、昭和23(1948)年8月8日付の紙面になると

…この式典は、いまや原爆犠牲者の追悼というより広島市民の心の歴史を刻む一里塚になってきたのだ

…一方市民運動場、原爆投下地点九千二百万平方メートルの「アトム公園」などを完成、明九日の原爆投下文化祭式典にこのアトム公園は開園式を行う

と、広島・長崎ともにすっかり「原爆」が板についた感があります。

「原子力」は敗戦直後から

一方、「原子力」が朝日新聞に初めて登場したのは、昭和20(1945)年11月8日付の紙面です。

原子力管理法案採択

[ワシントン六日発 SF=共同]
下院陸軍委員会は五日原子力管理法案を原案通り採択する旨報告した

ポツダム宣言受諾を公表した時点(8月15日)から起算して、まだ3か月も経っていません。

「原子力管理に新機関」(1947/01/01付)

など、定着も早いです。

前史「原子エネルギー」

「原子力」が登場する前、「力」は「エネルギー」でした。

原子エネルギー(1945/09/21付)

原子のエネルギー(1945/09/25付)

原子エネルギー(1945/09/26付)

原子エネルギー(1945/10/25付)

という具合です。

Atomic Energyの日本語化の過程か

これらの記事と直接の関連はありませんが、

コトバンク > 原子力委員会 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説によると、国連の「原子力委員会」の英語名は「Atomic Energy Commission」だった由。

原子力委員会という名称を冠した組織が史上最初に出現したのは、第二次世界大戦直後の1946年1月国際連合においてであって、原子力の軍事利用を管理し、平和的開発を促進することを目的としていた。

「原子力」の出自は「Atomic Energy」の訳語であることが示唆されます。

まとめ&後記

投下から「原爆」の登場まで、2年近くかかっていることがわかりました。

また、意外にも「原子力」の方が歴史が古いこともわかりました。

類似問題:金爆

同様に知りたいのは、

  • 日本人はいつから、ゴールデンボンバーを「金爆」と呼び始めたのか?

です。2009年まではさかのぼれました。

つづくかも

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