こんにちは。
はじめに:『考えすぎた人』
本屋さんに行ったら『考えすぎた人』という本に目が留まりました。清水義範さんによる短編小説集です。
そのなかの一章に、『論理哲学論考』の文体(書式)で、『論理哲学論考』がさっぱりわからん、ということが書いてありました。お金もないので買えませんでした。
「わからないことがわかった」らしい
別のところで、清水さんは「裏話」的にこう綴られています。
ハイデッガーやウィトゲンシュタインなんて、解説書をいくら読んでもなんにもわからないのに、どうわからせられるというのか。でも私は現代哲学について考えに考えた。そして考えすぎた私には、現代哲学はわからん、ということがくっきりとわかったのである。知らないままでいるよりは上達だと思っている。
わからないことがわかった|sincho-live.jp
うーん。
わからない、という結論が悪いとは言いませんけれど、かつて清水さんにパスティーシュという文体ものまね芸を教わった側としては、寂しい心地がしました。
ハイデガーは知らないのでおいといて、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は、私にはこれまで読んだ哲学の本の中でも飛び抜けてわかりやすい部類に入る1冊だからです。
そこで、考えすぎたという清水さんにも『論理哲学論考』はこんな本だというのが5分でわかるように、私の理解を書いておくことにしました。
結論:
『論理哲学論考』のタイトルを、ベタなわかりやすいネーミングで定評のある小林製薬風に付け直すと、
『語るその前に』です。
すなわちそれは、語る前に読む、マニュアル本です。
Photographed by Ben Richards, 1947 from en.wikipedia.org
5分でわかる『論理哲学論考』→『語るその前に』
『論理哲学論考』とは、『語るその前に』です。
「語るその前に」とは、こういう意味です。
- それはマニュアル本です。
- それは「語る」ためのマニュアルです。
- この「マニュアル」には、全体の半分しか書いてありません。というか、原理的に書けません。
- 彼が本当に語りたかったことは、この本には書いてありません。全部が「前置き」です。
1.マニュアル本
同書が持つ形式上の大きな特徴は、アウトライン付きテキストであることです。
たとえば、冒頭の「1」はこのような構成になっています。
- 1
- 1.1
- 1.11
- 1.12
- 1.13
- 1.2
- 1.21
- 1.1
スピノザの『エチカ』とか、哲学分野にも類似の構成を持つ本はありますが、むしろこういう構成がよく見られるのは、9001やら14001やらのISO規格要求事項とか、あるいは法律の条文とか、そういう類の文書です。
参照して実践するためのマニュアルです。
2.それは「語る」マニュアル
こうした構成で何をマニュアル化したかというと、「語る」です。
- 語られる側の世界
- 世界を語るという行為
- 両者の関係
を、詳らかに見きわめ、解明しています。文中に現れる数式・論理式も、その表現の一環です。
3.それは言わば「半月形」
もし「語るマニュアル」である『論理哲学論考』を1枚の絵で表すとするなら、こうなるでしょう。
※『論理哲学論考』の成り立ち(イメージ)
要は、「半分だけ」、ということです。
『論理哲学論考』には、語るに関して「前半」だけが記されています。記されている「後半」は冒頭だけです。
「後半」もずんずんと語っていきたいところですが、いきなり
7. 語り得ぬものには、沈黙するしかない。
となるからです。これが、ウィトゲンシュタインが『語るその前に』で整理した「語り得ぬもの」の扱い方すべてです。よってあとは沈黙が続くのみです。
理想的な本にするなら「前半と同じだけ、後ろ半分に空白」
私の知る限り、国内に出回っている同書の翻訳版は、多くても最後に2ページばかりしか空白がありません。
けれども理想を言えば、150ページなり200ページなり、少なくとも「語りうるもの」に対して費やしたのと同じだけ、「沈黙」としての空白のページがほしいところです。
「語りうるもの」と「語りえぬもの」とを等価に扱うならそうなるはずですし、それが正当な『語るその前に』のあり方と言えましょう。
関連記事
「7」の訳文については以前に検討した記事がありますので参考までに紹介します。
ウィトゲンシュタイン「語りえぬ」翻訳比較(2014/10/27)
4.全部が「前置き」
別にウィトゲンシュタインは、『語るその前に』みたいな話を語りたかったのではありません。
それとは別に何か語りたいことがあって、そのことを語り始めようとしたとき、まずはその「語る」ということを整理したく、というか整理せざるを得なくなってしまったので、先にそっちをまとめた。『語るその前に』はそうやってできあがった本です。
思考を整理できたという達成感はあったとは思いますけれど、ウィトゲンシュタインにとって、『語るその前に』に書いた内容は、それこそ「右足を出して左足を出すと、歩ける」の《あたりまえ体操》レベルのことです。
別の言い方をすると、ウィトゲンシュタインにとってこの本は、全部が前置きです。
ここらを理解すれば、あまたの解説にあるような
- バートランド・ラッセルによる序文に失望した とか、
- 出版後に、哲学者としてはキャリアのブランクがあった とか 、
- 研究上、本書を「前期」に分類し、以降を「中期」「後期」と分ける とか、
あれやこれやのあり方が、腑に落ちてきます。
まとめ
くり返します。
『論理哲学論考』は、マニュアル本です。タイトルを付け直すと、さしずめ『語るその前に』です。
『語るその前に』の記述内容に、著者ウィトゲンシュタインの個性の反映は大してありません。もし、そこに彼の個性の反映があったと言うのならば、「語りたい、でもその前に」と、あれだけの分量をかけて『語るその前に』をまとめざるを得なかった、というその点においてです。
もちろん生きていれば人は変わりますから、後年になって彼も語りたいことが移り変わってきたという可能性もあります。ですが私は、当記事のように理解しています。
ごく簡単なことだと思っていました。
おわり
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