こんにちは。
キラキラネームに関する議論になると必ず出てくる古典を、ここでも取り上げておきます。
『徒然草』の第百十六段です。
卜部兼好 from 菊地容斎画『前賢故実』(明治時代)※ja.wikipedia.orgより
『徒然草』 第百十六段
原文とその超訳と並べてみます。
原文
テキストは岩波文庫版から取りました。
寺院の号、さらぬ万(よろづ)の物にも、名を付くる事、昔の人は、少しも求めず、たゞ、ありのまゝに、やすく付けけるなり。この比(ころ)は、深く案じ、才覚をあらはさんとしたるように聞(きこ)ゆる、いとむつかし。人の名も、目慣れぬ文字(もんじ)を付かんとする、益なき事なり。
何事も、珍らしき事を求め、異説を好むは、浅才(せんざい)の人の必ずある事なりとぞ。
超訳
お寺とかの名前なんぞ昔みたいにありのままのベタな無回転で付けりゃあいいのに、近ごろのひねってます感やら意識高いアピールがほんと鼻につきすぎ。アホか。人にもキテレツな漢字とか使って、誰得?
いらないところで無理くりひねりたがりがち、の「浅はか愚か者あるある」っつーこった。
論点
子供の名前のキラキラぶりが取りざたされる今日の状況も、700年ばかり昔に兼好法師がdisったのと変わるところがありません。
なんでそんなふうに、名前に「珍らしきことを求め、異説を好」みたがるのか?
そこを考えないといけません。
つづく予定。
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