こんにちは。
どうでもいいおっさんの、どうでもいい自分語りです。
※写真と本文は関係ありません
要約:Executive Summary
いまの自分を作った世界観を大きく占めているのは、別々の本で読んだ次の4つの言葉です。
- 世間というのは、君じゃないか
- 一遍起ったことは何時までも続く
- 考えることは、悩むことではない
- 分類することは思想を構築すること
老いを迎えたいま、「どれも本当のこと」と確信を持って言えます。読んだ時分には弱かった、またはなかった実感も、ますます伴ってきているからです。
順に、出典情報とともに語ります。
世間というのは、君じゃないか
太宰治『人間失格』(1948)にある言葉です。
太宰治の世間論
前後のくだりを長めにピックアップしながら進めます。テキストは青空文庫版『人間失格』からです。
世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。
若い時分にはこのようなことをよく思ったものです。
小説の中で、太宰がひとつの答えを出してくれていました。※強調、下線は引用者
けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
そうか、そうだなあと。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)
まったく、そのとおりです。
けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。
そうして、世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。
私も大きく言えば、同じ方を向いて進むことができました。
太宰メソッド
この記事を書くのに検索していると、「太宰メソッド」というネットスラングがあることを知りました。
自らの個人的な好悪の感情などを「世間」や「みんな」といった大きな主語に託すことで、自分の責任は回避しつつ、発言に権威や説得力をもたせようとする手法。
―はてなキーワード:太宰メソッド
「太宰メソッド」という言葉が流通する世界は、そうでない世界よりも少しだけ生きやすい世界であるように思います。
一遍起ったことは何時までも続く
夏目漱石の小説『道草』(1915)のラストシーンにある言葉です。
青空文庫版から引用します。
「世の中に片付くなんてものは殆(ほと)んどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他(ひと)にも自分にも解らなくなるだけの事さ」
『道草』をはじめて読んだ若い時分に、ここでびくんときた覚えがあります。そうだそのとおりだと。
じわじわきたラスト
さらに、ん10年越しでじわじわきたのが、続く最後のくだりです。
健三の口調は吐き出すように苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱き上げた。
「おお好(い)い子だ好い子だ。御父さまの仰(おっし)ゃる事は何だかちっとも分りゃしないわね」
細君はこういいいい、幾度(いくたび)か赤い頬(ほお)に接吻(せっぷん)した。
これで小説は終わりです。
はじめてここを読んだときは、少しばかり困惑した覚えがあります。健三の言葉が細君には「何だかちっとも分りゃしない」と、まるで通じていない様子であるからです。それをどうとらえればいいか解釈しあぐねたものです。その意味で「驚愕のラスト」でした。
しかし時を経て、そこもじわじわとわかってくるようになりました。
大づかみな傾向としてものを言えば、どうも女という生き物にはこういう道理がわからないようなのです。直接間接にいくらかは女の社会も経験しての感慨です。
それで「驚愕のラスト」も違う意味となりました。
考えることは、悩むことではない
池田晶子『残酷人生論』(1998)のプロローグにある言葉です。
考えることは、悩むことではない
人が悩むのは、きちんと考えていないからにほかならず、きちんと考えることができるなら、人が悩むということなど、じつはあり得ないのである。
その理由を池田はこう説きます。
なぜなら、悩むよりも先に、悩まれている事柄の「何であるか」、が考えられていなければならないからである。「わからないこと」は考えられるべきである。
それまでは悩むこともあった気もしますが、以来、悩んだ覚えはありません。
世の中わからないことだらけです。
分類することは思想を構築すること
さて、ひと口に「考える」と申しますが、どうやって考えればいいのでしょうか?
検討にあたって、この言葉が大きな助けになりました。
分類することは思想を構築することだ、と私は思う。
池田清彦『分類という思想』(1992)「はしがき」の最初の最初に登場します。
余りにも慣れ親しんだ事柄には、人はたいてい無意識になってしまう。多くの人は、自分が特定の分類様式に従って世界を眺めていることすら、意識していないのではないだろうか。
この記述のおかげで、世界を眺めるその前に、眺める「眺め方」に対してまず意識を向けられるようになりました。
名前研究のきっかけにも
第一章の「2 コトバは思考をしばる」にはこんなくだりもあります。
…名称体系は我々の思考枠をしばっているのである。
なまえをつけることは、もっとも初源的な分類なのである。世界はなまえをつけられてある同一性に分節され(もちろんこれは事物の方から見れば幻想である)、逆にこの同一性と差異性は世界を見る基準となる。
私が名前に興味を覚えて研究を始めるようになったのも、池田さんの影響が間違いなくあります。
『分類という思想』のすすめ
池田さんには硬軟各方面に多くの著書がありますが、私の中ではこの『分類という思想』が一頭地を抜いています。おすすめします。
新たな代表作の予感
ところで、リアルタイムで「新作」に接することができるのは、同時代に生きる者にとっての大きな喜びであります。
4つの言葉が書かれた書物の著者のうち、現在池田清彦さんだけがご存命です(2014年10月時点)。
ここ2014年に至り、池田清彦さんの代表作に加わる予感がする新作が出現しました。こちらです。
カラムーチョCM 生物学者 池田清彦「まともじゃない」篇|湖池屋(2014/08/01付)
これ、傑作だと思います。なぜなら、15秒のCMでありながら、池田さんの思想のエッセンスをも端的に表現できているからです。
これを制作した人は、きっと「わかっている人」です。
まとめ
4つを再掲します。
- 世間というのは、君じゃないか
- 一遍起ったことは何時までも続く
- 考えることは、悩むことではない
- 分類することは思想を構築すること
以上が、たとえて言えば私という人間を動かすソフトウェアのカーネルです。ある時期からソースコードにしっかりと書き込まれ定着しています。
「俺ソフトウェア」は生涯メンテナンスしていくものですが、これらに関しては終生更新されることはないでしょう。
こちらからは以上です。
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