こんにちは。
「丼」一字でいいのに「丼ぶり」と書いてしまう「どんぶりぶり問題」を考えるシリーズ3回目です。
3杯目にはそっと出す、シリーズいちおうの完結編でございます。
これまでのあらすじ
シリーズ1回目の
- 「丼」でいいのに「丼ぶり」と書く「どんぶりぶり問題」(1)(2014/09/14)
で「丼ぶり」表記のアホっぽさについて述べ、つづく
- 「丼ぶり」の「書き出しっぺ」は誰だ?見込み捜査録―どんぶりぶり問題(2杯目)(2014/09/14)
で「丼ぶり」拡散の「犯人捜し」と対策の提案を行いました。
※「丼」でいいのに「丼ぶり」と書く「どんぶりぶり問題」の例(撮影:2014年8月)
「丼」史まとめ
この記事では、「丼」の字が表してきたものの移り変わりをまとめます。
それにより、当今の「どんぶりぶり問題」を生んだ背景を探ります。
諸文献をひもときつつ、総合的には見てきたような嘘をつく試みです。そのつもりでお付き合いください。
「丼」パワーゲームの小史
「丼」の字をめぐる諸勢力の消長の歴史をまとめます。それはまさに、「丼」をめぐってのパワーゲームの歴史と言えます。
丼の字が表してきたもの
古い順からざっと時系列で並べると、こうなります。
- 「井げたの形」
- 井戸
- ◆訓読み「どんぶり」の誕生
- 「深いもの」
- 食器
- 食事
- ◆訓読み「どん」の誕生
- ◆「どん」勢力の拡大 ←いまここ
だいたい3~4000年前から現代までのタイムスパンです。
以下、順に区切って述べていきます。
1.「井げたの形」
「丼」の文字は、もともと「井げたの形」をかたどったものです。
「丼」と「井」は“同じ”
現代では「丼」と「井」は別々の字です。しかし古代中国では、区別がありませんでした。
白川静先生の『字統』をひもとくと、「漢」字より前の時代は、両方の形が混然と使われていたようです。また「丼」が「井の本字」とされています。
「井げたの形」具体例
丼という「井げたの形」で何を表していたかというと、たとえば
- 罪人に付ける首枷
- 鋳物を作るための型枠
- 井戸
といったものです。
2.井戸
「丼」の字が表すもののうちで勝ち残ったのは、井戸です。やはり水が、人の暮らしに欠かせないからでしょうか。
白川静先生の『字統』では、
卜文・金文に井・丼を井戸の意に用いる例はなく、その義は後起の義。
とあります。後の時代になって出てきた字義のようです。
井戸でない「井げた」の分化
従来「丼」が表していたもののうち、「井戸」以外の意味内容は、
- 首枷については、「刑」「邢」へ
- 枠については、「型」へ
と、同様の「井げた」の形を持つ別の字に担当が分かれていきました。
「丼」中央の「ヽ」について
『説文解字』に、「丼」の井げた中央の「ヽ」は「みずくみがめ」を表すとあるそうです。(『字統』による)
なるほど「丼」は、井戸に水がめを入れている俯瞰図に見えます。
3.◆訓読み「どんぶり」の誕生
この段階で、日本列島に(他の多くの漢字と一緒に)「丼」の字が入ってきたと思われます。
すなわち、漢字の輸入当初は次のような状態です。
- 「丼」とは、もっぱら「井戸」の意味
- 「丼」と「井」の字をほとんど区別しない
「どんぶり」と読み始める日本人
「丼」中央の「ヽ」に、きっと日本人の想像力がはたらいたのでしょう。この字を「どんぶり」と読み始めました。
「どんぶり」とは、何かが水に落ちる音です。
初出を追えていませんが、遅くとも江戸時代にはこの読み方があったようです。
「どんぶり」の語感
「どんぶり」は、ちょうど井戸に石でも落としたときのように
- 垂直方向の動き
- ある程度長い距離を落ちる「深い」動き
を表しています。
例
後年の例ですが、大正時代の唱歌《どんぐりころころ》(作詞:青木存義, 1921-22)で確認しておきましょう。
どんぐりころころ ドンブリコ
お池にはまって さあ大変
この表現から、歌の主人公であるどんぐりは、垂直方向(山の上から下)に、ある程度長い距離を転がってきた結果、お池にはまったことがわかります。
「井」との別れの予感
そんな「どんぶり」の訓が付いたことにより、「丼」の字が「井」と使いみちが別れるきっかけになったのではないかと考えます。
付記:Wikipediaへの疑問
Wikipedia「丼」には、変なことも書いてあります。
漢字の『丼』も井戸に物を投げ込む様子を現すと言われている。
って、言ったの誰ですか?
誰かが言っていたのだとしても、それは「オリジナルメニュー」ではなく、後から日本で付け足された「後のせ的俗解」でしょうね。
日本人なら言うかもしれませんが、上で述べた経緯を鑑みれば、古代の中国人が言いそうにはありません。
4.「深いもの」
「丼」の字を、日本人は水に物の落ちる音である「どんぶり」と読み始めました。
「どんぶり」は何かが「垂直に」「長く」運動した結果、水に落ちて生じる音です。
「深い」を感じます。
そんな「深い感」から、「丼」応用技術が開花します。いろんな意味を持った「丼アプリ」が次々と生まれました。
丼の「深い」アプリケーション
昔の日本人は、「丼」の「深い」感から、次のようなものを「丼」と呼ぶようになりました。
- 深いほとぎ(とっくり状の水・酒入れ)
- 更紗・緞子などで作った大きな袋
- 腹がけの前ポケット
※画像出所:前掛けと腹掛けと丼勘定|染織こだまS
「どんぶり勘定」の誕生
ここから「どんぶり勘定」という言葉も生まれました。「どんぶり勘定」の「丼」とは、前掛け・腹掛けの前ポケットのことです。
以前記事にしましたので、詳しくはこちらをご覧ください。
- 「どんぶり勘定」と聞いて食器的な何かイメージしてるヤツちょっと来い(2014/03/21)
5.食器
「丼」の字を単体で食器の意味に使うのは、歴史的には新しい用法です。
確立されてきたのは、おおむね明治期あたりです。
前史:元は「丼鉢」
江戸期の辞書で明治期に出版された『俚言集覧』では、丼に「甌[ほとぎ]の深きもの」の語釈はあっても、まだ食器の意味は出てきません。
※画像出所:近代デジタルライブラリー『俚言集覧. 中巻』(19C初頭, 1899)
青空文庫で用例を探すと、並行して「丼鉢」と呼ぶパターンがいくらか見られます。
しかしこれもやがて、「丼」だけで食器の意味を表せるようになっていきました。
6.食事
そして、「丼」を単体で「丼鉢に盛られた食事」の意味に使うのは、さらに新しい用法です。
確立されてきたのは、大正~昭和期あたりです。
前史:丼物(どんぶりもの)、丼飯(どんぶりめし)が一般
「丼鉢に盛られた食事」のことを、単体で「丼」と称することは稀で、総称では「丼もの」「丼めし」が一般的でした。
個々の食事としての「丼」は、「丼」単体ではなく個別メニューである「○○丼」という形での使い方が一般でした。
「食事」の意味は生まれていたが、その意味での「丼」一字での用例は少なく、独立までしきれていなかった状態と言えましょう。たとえるなら、店を持つ前の段階の、雇われの板前さんです。
それが、徐々に様相が変わってきます。
7.◆訓読み「どん」の誕生
上で見たとおり、「どん」というのは、「どんぶり」の後から生まれた新しい読み方です。「どん」は「どんぶり」を略したものと考えられるためです。
たとえば青空文庫を探してみると、明治36(1903)年のテキストに「天丼(てんどん)」の表記が見られます(斎藤緑雨「もゝはがき」)。同文庫で見つけた中では、これが最古の用例です。
そこから敷衍すると、丼の「どん」は20世紀以降に一般的となった読みと言えましょう。
国語辞典での「どん」の扱い
実際、いくつか国語辞典を見ると、「どん(丼)」の見出しでは「どんぶりの略語」とか「造語成分」とか「接尾語」といった注釈が付けられています。
辞書編者の「正式な見出し語とするにはまだ抵抗がある」という気持ちが伝わる書きぶりです。
2014年のいまもなお、国語辞典的に正式なのは、あくまで「どんぶり」です。
8.◆「どん」の勢力拡大
ところが辞書の外に目を転じると、「丼」界では新参者の「どん」が既に優勢です。「猖獗をきわめている」とすら言えてしまえそうです。
常用漢字表に進出
「丼」の字は、2010年の改定で常用漢字表に追加されました。そこでは「どんぶり」「どん」の2つの訓が記されています。
※出所:常用漢字表の音訓索引(bunka.go.jp)
丼の「音訓」欄での「どん」は、1字下げによって「特別なものか,又は用法のごく狭いもの」扱いになってはいますが、上図での書きぶりのとおり、実質的に「どんぶり」と肩を並べています。
料理メニューでの「どん」シェア拡大
料理メニューの名称である「○○丼」は、今日ほとんど「どん」と読まれています。
「天麩羅どんぶり」の省略形である「天丼」を「てんどん」と読むのは、まだ理解できます。「丼」を「どん」と読む用例として、当方で確認できた最も古いものでもありますし。
しかし、省略していない「親子丼」「鰻丼」など、「おやこどんぶり」「うなぎどんぶり」と読んでいいし、そちらが正式なはずですが、そう読む人は既にまれに思えます。
今日びはたいてい「おやこどん」「うなどん」です。
新顔丼は「どん」ばかり
そしてメニューとして比較的「新顔」である丼ものの名前、たとえば
- 海鮮丼
- いくら丼
- 豚ロース丼
- ネギトロ丼
- ロコモコ丼
- etc.
での「丼」の読みは、もはやほとんどが「どん」です。
丼界の「2000年問題」
そうしたなか、1999年12月、ひとつの会社が株式店頭公開を機に「丼ぶり」の表記を使い始めました。
「丼ぶりとうどんのなか卯」です。
丼界にも、こんな2000年問題がありました。
低学力層への影響
37都道府県(2013年3月末現在)に広がる外食チェーンの力もあり、この社会を厚く占める低学力層には、
「丼」の字は「どん」と読む
としかインプットされなくなりました。
詳細はどんぶりぶり問題(2杯目)の記事をご覧ください。
他分野での「丼」の死語化も後押し
同時に進行しているのが、食以外の分野での「丼」の死語化です。
「丼」を、先ほど4.で挙げたような
- 深いほとぎ(とっくり状の水・酒入れ)
- 更紗・緞子などで作った大きな袋
- 腹がけの前ポケット
といった「深いもの」の意味で用いる例は、もはや過去のテキストの中にしか存在せず、現在では絶滅しています。
そのため「どんぶり勘定」が、食器的な何かに由来すると勘違いしている人も多くいます。
危険な「どん」党の台頭
こういった諸要因がからみあい、「どん」がじわじわと、「丼」の読みがなの座から「ぶり」を追い出しにかかっています。
非常に危険な兆候です。
「どんぶりぶり問題」まとめ
「丼」でいいのに「丼ぶり」と書いてしまっている用例が近年気になるほどに目立ってきたため、一連の記事にしました。
しかし「丼」も、この記事で概観しただけの、さらにはまだまだ書き足りないだけの歴史を抱えて、今日があるわけです。
ところが、今日勢力を得つつある「丼=どん」史観では、そうした歴史と伝統をまったく無視しているように感じられます。かかる歴史に無知であるのみならず、「丼」を「どんぶり」と読めることさえ知らない低学力層が、その中心にいるもようです。
感じる「排除の論理」
危険なのは、「丼=どん」史観は、どうも「どんぶり」との共存を認めていそうにないことです。
「丼」でいいところを「丼ぶり」とする表記の台頭に、かつて新大陸各地で原住民を虐殺しつつ追いやった西洋諸国からの入植民たちや、ひいては合法的に国内ユダヤ人の排除と殲滅を進めたナチスドイツの姿が重なってくるように思えてなりません。
浅薄な史観からなる蛮行は是非とも阻止したいところです。しかし着々と進行する「丼パワーゲーム」の流れをひっくり返すにはあまりに無力で歯がゆいです。
今日の丼は大盛りにしたいです。
ご静聴ありがとうございました。
コメント
すばらしい。
大力作と思います。この記事をまとめるのに掛かった時間と労力を想像するに、最大限の賛辞を送らざるを得ません。