お元気ですか。
「お」を研究しています。「お+元気」など、語句の頭にいる「お」です。
文法用語で接頭辞や接頭語と言います。
そんな接頭辞「お」が、いつも敬語の文脈で、つまり敬語の枠の中で語られていることに、だんだんと不満が募ってきました。この記事ではそこを述べていきます。
「美化語」への疑問
文化庁の文化審議会が2007年に出した答申「敬語の指針」(PDF)では、敬語を5種類に分けています。
「お」は、「美化語」に分類されています。「お酒・お料理」型とされています。
広い意味では,敬語と位置付けることができるものである。
はいいとして、
「お酒」は 「酒」という言い方と比較して「ものごとを,美化して述べている」のだと見られる。
本当でしょうか?
尾籠な話となりますが、便所の美化語を考えてみると、おかしくなってきます。
便所の美化語を考える
便所におを付けると、便所が美化されるでしょうか?
はたして「お便所」は、便所の美化語なんでしょうか?
トイレでも同じ
「トイレ」と「おトイレ」でも同じです。おトイレの神様は、トイレの神様よりきれいなべっぴんさんなんでしょうか?
便所の美化語とは
便所の美化語にふさわしいのは、「(お)手洗い」とか、「化粧室」とか、そっちだと思います。
想定される反論
「それは美化語ではなく、婉曲表現」という反論も想定できます。「手洗い」「化粧室」とは、便所の本質を外した言い換えだとも取れるからです。
では、こちらではどうでしょうか。さらにシモへシモへ進めます。
小便の美化語を考える
小便の美化語を考えます。小便を「おしっこ」と言えば、美化できているでしょうか?
あるいは健康診断などの尿検査ですと、「お小水を取ってきてください」と言われます。「お小水」は美化語なんでしょうか?
小便の美化語は「聖水」
違います。小便の美化語とは「聖水」です。
その証拠に、聖水を浴びたり飲んだりすることは、それを行う者にとっての大きな悦びです。
おしっこやお小水では、難しいでしょう。
小まとめ
文化審議会「敬語の指針」では「お」を美化語としていますが、「お」で美化できていない事例、他にふさわしい美化語がある事例が実在しています。
「美化語」の向こう側がありそうです。
「どれでもある」は「どれでもない」では?
「お」は、従来の「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」という敬語の3分類のすべてに出てきます。
同じく「敬語の指針」から例を取ると(一部改変)
- 先生のお名前 は尊敬語的表現
- 先生へのお手紙 は謙譲語的表現
- 先生、お酒をどうぞ は丁寧語的表現
です。
尊敬語の「お」はこんな解説でした。
「お名前」「お忙しい」のように,行為ではなく,ものごとや状態を表す語にも,尊敬語と呼ばれるものがある。例えば「先生のお名前」は「名前」の<所有者>である先生を,また「先生はお忙しいようですね。」は忙しい状態にある先生を,それぞれ立てることになる。
美化語の「お」では、
例えば,「お酒は百薬の長なんだよ。」などと述べる場合の「お酒」は,1の尊敬語である「お導き」「お名前」等とは違って,<行為者>や<所有者>を立てるものではない。また,2の謙譲語Ⅰである「(立てるべき人物への)お手紙」等とも違って,<向かう先>を立てるものでもない。
よって、美化語と考えられるという解説になっています。
しかし思うのです。そういう具合に、「お」が文脈によって「どれにでも当てはまる」ということは、究極には「どれでもない」のではないか?
カテゴライズに失敗しているように思えます。
事実、敬語の枠に収めるのが難しい用例が実在します。
「お」敬語の限界
敬語として考えるとわからなくなる「お」の例が、大きく2つあります。
1:おさわり
ひとつは、「お」がなくなると意味がおかしくなる用例です
やすきよ漫才傑作選(3)「キャバレー天国」(1980)からです。
この男は好きですよおさわりバー
なんでやねん
お嫌いですか?
お好きです
の掛け合いはいいとして、問題は「おさわり」です。
「おさわり」は、「さわり」を美化しているわけでも、尊敬や謙譲の意を込めて使っているわけでもありません。
「お」のない「さわり」は、「おさわり」と意味が違います。したがって、敬語を使わない文脈でも「おさわり」を「さわり」とは言えません。両者の交換は不可能です。
「おさわり」を敬語に位置づけると、つじつまの合わない部分が出てきます。
2:おふね・お麦
日本語話者には、「お」を多用する人種がいます。
女子供、特に子供です。
例その1
おいけにおふねを うかべたら
おそらにみかづき のぼってた大山のぶ代《ドラえもん・えかきうた》(1979)
「お」がいっぱいです。この歌にはあと「おまめ」も出てきます。
例その2
「お米」とは言っても「お麦」とは言わないなと思って、「お麦」が使われている用例を探してみました。
ありました。
麦 麦 お麦
ぽつくりお麦を
袋につめて、
ぽこ、ぽこ来るのは木馬さん。村山籌子「チユウちやんのおたんじやう日」(1926)
『子供之友』が初出だそうです。
敬語では説明できない
こういった用例について「子供には丁寧に言うように教えるから」といった説明をしているものがありました。無理がありすぎます。
ではなぜ、子供はいつしか「おふね」「お麦」と言うのをやめてしまうのでしょうか。
いったん敬語を忘れてみる
「お」の機能とは何だろうか?
いったん敬語のことは忘れ、それを虚心に観察しているうち、見えてきました。
「お」の機能は「具体性を高める」
「お」の現場で、「お」によって何が起こっているかというと、
- 具体性を高める
です。
検証
「おさわり」「おふね」「お麦」、どれも「お」のない「さわり」「ふね」「麦」よりもより具体的です。それこそ手でさわれそうな実在性が備わる感じがします。
「お嫌い」「お好き」も、「嫌い」「好き」と比べてより具体的な事物を指した文脈を感じます。
あるいは「願い」と「お願い」も、後者の方が具体的に投げかけ(られ)ている感じがします。具体性が高まっていると言えそうです。
敬語を忘れて考えてみれば
「お」の古い形である「おん」の用例で考えてみます。いったん敬語を脇においてみると、
いづれの御時にか…
―紫式部『源氏物語』「桐壺」(a.11C)
も、
神の御前に身を委ねたる…
―横山やすし「プロポーズ大作戦」(1973-1985)
も、「御」の役割は同じだと言えそうです。
敬語表現と不可分ではありますが、そこをあえて忘れてみれば、「お」の具体性を高めるはたらきが浮かび上がってきます。
「御時」とは特定の治世、「御前」とは特定の場所を指しているととらえられるからです。いずれもただの「時」「前」よりも具体性が高いです。
だいたいうまくいきそうです。
つづく
コメント
「その証拠に、聖水を浴びたり飲んだりすることは、それを行う者にとっての大きな悦びです。
おしっこやお小水では、難しいでしょう。」
議論の余地があると思います。誰のおしっこやお小水かによると思います。