こんにちは。
「書けます」リストからリクエストをいただきました。ありがとうございます。
出典マニアですが、部分的にさほどの細密な出典を示さず雑に進めます。
要約:Executive Summary
現代の日本で断捨離するなら、この3つです。
- 情報
- 物語
- 意味
どれも過剰です。多すぎます。そんなにいりません。
論語にも「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」とあります。
多すぎるこの3つが、極端なもの言いをすれば、生き物としての人の生命力を奪っている元凶のように思うのです。
以下、順に述べていきます。
1.情報
3つ挙げましたが、究極に断捨離すべきは、何はさておき情報です。というのは、あとの物語も意味も、情報から生まれる言わば「情報の子」だからです。すべての根源は情報です。
で、世の中には無用の情報があふれかえっています。多すぎます。人が扱える量を大きく超えています。
いりません。
モリー先生の例 その1
『モリー先生との火曜日』に、こんなくだりがあります。
著者のモノローグから引用します(別宮貞徳訳)。
どうしてぼくらはこんなどうでもいいことにばかりかかずらっているのだろう? アメリカではO・J・シンプソン裁判がクライマックスを迎え、誰も彼も昼食そっちのけで成り行きを見守っている。残りはビデオにとっておいて夜見ようというありさま。O・J・シンプソンは知り合いではない。事件の関係者は誰も知り合いではない。にもかかわらず、みなこの赤の他人のドラマに日夜うつつを抜かしている。(p.47)
端的には「面白いから」なんでしょう。その点では、どうでもいいことではありません。
モリー先生のこんな言葉が続きます。※強調は原文傍点
「われわれのこの文化は人びとに満ち足りた気持ちを与えない。文化がろくな役に立たないんなら、そんなものいらないと言えるだけの強さを持たないといけない」(p.47)
情報断捨離のジレンマ
この記事で言う「情報」とは、ほぼ、人が作り人が発している情報を指します。以後「人工情報」と呼んでおきます。
たとえば自分は、たいがいが不要無用の人工情報とわかっていながら、毎日パソコンの電源を入れてそれらに接しています。やめようと思いつつ禁煙できない喫煙者と同じような気持ちです。
当然、不要無用の人工情報にはこのブログ記事自体も含まれます。そんなブーメランです。
モリー先生の例 その2
『モリー先生との火曜日』から、当世の文化を「そんなものいらない」としたモリー先生の「自分自身の文化」をいくつか抜粋してリストにします。
- ディスカッショングループ
- 友人との散歩
- 教会でのダンス
- 貧しい人のために精神的なケアを行うプロジェクトの発足
こう述べられています。
食べることと自然を見ることに多くの時間を使い、テレビのお笑い番組や「今週の映画」で時間をむだにしない。人間的な活動――会話、協力、愛情――の繭(まゆ)を編み上げ、それが、ボウルになみなみとついだスープのように彼の生活を満たしていたのだった。(pp.47-48)
「何もしない」も含めて、何に使うのであれ、時間は無駄にしたくないものです。
老境に入って、日一日、人生の残り時間が刻々となくなっていることを自覚せざるをえない機会が増え、その思いは強まる一方です。
それでも情報は得られる
モリー先生のような社交家でなくても、「自分自身の文化」を創るのにあたり心配は要りません。
前に養老孟司さんがテレビで
星でも雲でも虫でもいい、1日1度は人が作っていないものに目を向けてください。
と、そんなことを言っていました。どんな番組で、どんな文脈かは覚えていませんし(確かめてもいません)、細かな語句も違っていると思います。
なにも人工情報を極端に嫌ってことごく遮断する必要はないでしょう。けれども、人工の情報に触れなくても、さらには人付き合いを好まなくても、生きていれば五感からいくらでも情報が入ってきます。
それだけで、世界は十分に豊かです。
2.物語
先ほど、物語は「情報の子」と述べました。情報のサブカテゴリに属するとも言えます。
情報を整理するのに、物語は非常に有効な手段です。物語化する処理を施すことで、人は多くの情報を整理し記憶し、また引き出して活用することができます。歴史(history)もまた物語(story)にほかなりません。
たとえば仏像ひとつ鑑賞するにしても、より本質に迫りたければ「八部衆とは元は異教徒の神々でうんぬん」といった物語が必要です。五感だけでこうした情報までを感得することはまず無理です。
そうした物語の役割なり効用なりは認めつつ、それでも、物語があふれかえりすぎです。こんなにいりません。
こんな物語いらない
通俗のビジネス書やらセミナーやらではよく
- 物を売るな、物語を売れ
などといってます。普通に売っても誰も見向きもしないから、なのでしょう。
いらないと強く思うのは、この種の物語です。
マジいらない。
消費されるのは物か?物語か?
雑な推論ですが、世間にこんな物語があふれかえっているのは、供給が過剰、飽和状態にあるからです。
その結果、たとえばこんな物がこんな風に売られます。
1年経っても腐らないといわれる、世界にたった20本しかないリンゴが持つ奇跡の幹細胞から、アップルセルティックを抽出・培養し誕生したのが、リッツ「ゴールデンナイトジェリー」
YouTube:【店頭VP】LITS リッツ「ゴールデンナイトジェリー」「スパークリングジェルパック」 |NatureLabMSD(2013/04/15付)
いらない。
おっさんには無用の商品だからという意味でなく、いらない。
売り物の奇跡もいらない
その他具体名は挙げませんが、世間で「奇跡のなんちゃら」という名の類で売られ持てはやされているものも、ひと皮めくれば、その皮の下からのぞくのはだいたいが物語です。
いりません。
物語の抱き合わせ商法が嫌い
世の商品のなかには、抱き合わせで付いてくるように見える品の方が、付属品に見えて実はその本体であるものがあります。
たとえばシールやフィギュアにお菓子を付けて売る、投票券や握手券にCDを付けて売る、といったケースです。どれも否定しません。やればいいです。
しかし、物語に何か付けて売るのは嫌いです。
許せる物語の境界線を探る
ですがよくよく考えてみれば、多くの物の値段には、物語ぶんの値段もまた含まれています。
たとえば銀座あたりに店を構えるようなブランドが売る品の場合、物自体よりもむしろ物語の方が値段の大部分を占めていそうです。
「なんとか成分1000mg配合」とか、「カテキン・ポリフェノール2倍」とかだって、奇跡のなんちゃらほど悪質でなくても、言ってみれば物語です。
それも「いらない」と言えもしますが、ならばそれ以外のどこを訴求ポイントにすればいいの?と売る側に問われたら、返答に困ります。
巨視的に見れば、そうして物語を消費することで経済が潤っている面も否定できません。
小まとめ:それでも物語はいらない
それでも、山盛りに盛られた物語に申し訳か体裁合わせ程度に物を付けて売る行為は気に入らないです。
同じこと反対側から言うと、ある物に、その価値に全く見合わないほどの過剰な物語をまぶし付けて売るかのような行為は、どうも腹に据えかねます。
その理由は自分でもよくわかりません。嫌う境界線の自己分析をもう少しつづけます。
ついでに嫌い
ついでに、通俗的で安易な物語も嫌いです。
具体例を出すと長くなりますのでこれ以上は触れません。考えも整理がついていませんし、気が向けば別途記事にします。
3.意味
意味もまた情報の子です。
接した情報、あるいは処理した情報に対し、人は何かと意味を与え、意味を欲しがります。
過剰です。
人生に意味が欲しい人たち その1
『モリー先生との火曜日』にも、モリー先生のこんな言葉が出てきます。
「多くの人が無意味な人生を抱えて歩き回っている。(略)まちがったものを追いかけているからそうなる。人生に意味を与える道は、人を愛すること、自分の周囲の社会のために尽くすこと、自分に目的と意味を与えてくれるものを創りだすこと」(p.48)
一応は承りますが、しかし思うのです。
意味って、いるか?
人生に意味が欲しい人たち その2
アンジェラ・アキさんの《手紙 ~拝啓 十五の君へ~》(2008)には、こんな歌詞があります。
人生の全てに意味があるから
参考動画(YouTube)
しかし思うのです。そうか?
意味を扱うお笑い芸人たち
明石家さんまさんは一時期、
- いーみなーいじゃん
というギャグ?を多用していました。明石家マンション物語(1999-2001)の頃だったと思います。ちょうど意味なし教のなんとかというのもやっていたような。
小島よしおさんもまた
- なんの意味もない
とくり返していました。
意味が気になるようです。
ちりめんじゃこで考える人生の意味
しかし思うのです。そんなに意味が大事でしょうか?
かつては、ちりめんじゃこを見るたびに、こう思ったものです。
この一尾一尾の人生に、いや魚生に、意味はあるのだろうか?
この世に生をうけて間もないうちに漁獲され、あげくその亡骸を釜ゆでされたり干されたりしていることに、何か意味はあるでしょうか。
どう考えてもありません。まさに「なんの意味もない」です。なんの意味もない。
おいしくいただいたりいただかれたりするのは、こちらの一方的な見方にすぎません。
あるいは生まれたての海亀で考える
人が出てくるとややこしい面もあるので、あるいは人の介在しないこんな例を考えます。
砂浜で卵からかえったウミガメの子が、海を目指します。そして波打ち際にたどり着くまでに、鳥に捕まって食べられます。
かえりました。海目指しました。はい食べられました。です。
そんなウミガメの亀生に、意味はあるのでしょうか?
ありません。
ついでに言えば、ウミガメの子を狙って食べる鳥の側にも、意味はありません。
正確には、意味そのものがない
もう少し正確を期して事態を述べるならば、「意味がない」というより、そこは「意味」の概念そのものが存在しない世界です。
意味ゆえに苦しむ
思いもよらない事情で家族やその他大事な何かを失うと、人はなぜ?と苦しみます。
ことにその事情が自然災害であれば、なおさらです。なんでこんなことに?と思わずにはいられません。
意味を欲しがる習性は、生き物としてのヒトが抱える業病だと言えそうです。
無意味の世界
しかし自然には意味がありません。意味なく雨は降り雷鳴はとどろき、山は崩れまた火を噴き、地は揺れて波は押し寄せては返っていきます。
くり返しますが、なんの意味もありません。
意味の無意味
人が極限の環境に置かれたとき、そこで生きぬき生還を果たすのに必要なのは、何より「意味」です。ここで詳しくは述べませんが、数多くの、それこそあらゆる意味でのサバイバーの事例から、そう言える感触があります。
それでもあえて言います。
何から何まで意味はいりません。
意味があるか?という問いもいらないです。
上島竜兵さんの場合
『人生他力本願』(2010)から、素敵な言葉を紹介します。
だいたい、「くるりんぱ」に正解はないから。そこに何の意味もないし。
「どうぞどうぞ」だって何の意味もないしね。そういうことで言うとね、俺ら、意味のないことやってるんですよ、日々。(p.45)
無意味を生きています。素敵です。
ただ、この言葉はこう続きます。
でもね、くだらないし、意味のないことでも続けることで意味があるんですよ。意味があるっていうか、定着するっていうか。
これは少し残念です。意味の病にかかっています。
まとめ:過ぎたるはなお
「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」、すなわち、多すぎるのは、足らないのと同じようなものです。
多すぎる「過ぎたる」の代表が「情報」、とりわけ人工の情報です。断捨離しましょう。
そして、人が情報から生みたがる物語と意味もまた、断捨離すべきものです。
後記:断捨離について
ところで、「断捨離」という言葉が一般化したのは、こちらの書籍がきっかけです。
2009年なんですね。老人には先週ぐらいの感覚です。
著者やましたひでこさんの公式サイトを見てみると、こうありました。
断捨離は、やましたひでこの登録商標です。無断での商用利用はお断りします。
これもまた、過ぎたるはなお…の一例です。
いらない。
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