こんにちは。
「感動をありがとう」って、なんであんなに気持ちが悪いんだろう?
折々で、これをずっと考えていました。
のべ8年ほど考えて、ようやくひとつの結論に達したので書いておきます。
結論:「感動をありがとう」がなぜ気持ち悪いか
「感動をありがとう」というセリフ、あるいはそう口走る人がなぜ気持ち悪いのか、その理由がわかりました。
感動を取引しているからです。
別の言い方をすると、人間として何か大事な部分を売り渡してしまっているからです。
感動を取引するような人は、見た目は人の形をしていますが、人間には見えません。
不気味です。
だから気持ちが悪いのです。
以下、詳しく説明していきます。
1.感動のしくみを「乙女モデル」で確認する
お昼休み
スープパスタに感動
タンポポ《乙女 パスタに感動》(詞:つんく, 2000)の歌い出しです。
確認:感動とは、乙女の問題である。
議論を進めるにあたり、まず押さえておかなければならないのは、
- 感動とは、乙女の問題であって、パスタの問題ではない。
という点です。
そこを「乙女 パスタに感動」で確認しておきましょう。こうなります。
図1(乙女モデル):乙女 パスタに感動
すなわち、パスタに感動するかどうかは、ひとえに乙女の側、すなわち、それを受けとる側の問題です。
これを「乙女モデル」と呼ぶことにします。
老人はパスタに感動しない
事実、乙女の対極に位置する老人は、パスタに感動する乙女を「アホか」と思います。
しかしパスタに感動する乙女の、内心の自由は保障しなければなりません。当然の話です。
2.事態の記述―「乙女モデル」を例に
ここでは、「乙女モデル」として図示した事態について、それを言葉で記述するしかたをいくつか検討していきます。
外側からの記述
図1を「乙女」「パスタ」の外側から記述するならば、
- パスタは乙女に感動を与えた。
または
- 乙女はパスタに感動を受けた。
と記述できます。このスタイルは三人称的な、客観的な記述だとも言えます。
三人称記述でも「乙女モデル」に変化なし
三人称的な記述のスタイルだと、乙女とパスタの間で「感動」が授受されたようにも解釈できます。
先述の「乙女モデル」が変化したのでしょうか?
いいえ。そうは言えません。これを「言葉の綾」と言うと曖昧になってしまいますが、先に図示した同じ事態を「与える/受ける」を使って表現することも可能だからです。事態の本質は、そのままです。
与える/受けるの意味
「与える/受ける」には、「何らかの影響を及ぼす/及ぼされる」という意味もあります。
『明鏡国語辞典』での「受ける」の説明を引用しておきます。
対象に抱く思いなどを受動的な視点でとらえてもいう。「心に感銘を―」「強い印象を―」
「与える」は、その反対側からの記述となります。
つまり、「乙女 パスタに感動」を、「パスタは乙女に感動を与えた」「乙女はパスタに感動を受けた」と書き換えても、事態の本質が変わるわけではありません。「乙女モデル」のままです。
大正期の用例から
用例でも確認しておきます。青空文庫で「感動を与える/受ける」を検索してみると、大正期、1910~20年代には既にごく普通の用法であったことがうかがえます。以下、いくつか紹介します。 ※下線は引用者
三人称的記述
三人称での客観的な記述の用例です。
が、事実は知れないまでも、一番もっともらしく思われる理由は、日錚和尚の説教が、夫や子に遅れた母の心へ異常な感動を与えた事です。
芥川龍之介『捨児』(1920)
で、「喰詰者(くいつめもの)のお前なぞによけいな……」こう後ろから呶鳴りつけられそうな気もされてきて、そこそこに待合室へ引返して「光の中を歩め」を読みおえたが、現在の頼りない気持から、かなり感動を受けた。
葛西善蔵『贋物』(1917)
一人称記述
こちらは、一人称で用いている例です。
私が初めて甚深(じんしん)の感動を与えられ、小説に対して敬虔(けいけん)な信念を持つようになったのはドストエフスキーの『罪と罰』であった。
内田魯庵『二葉亭余談』(1916, 1925補筆)
私は非常な感動を受けた。涙を押へることができなかつた。
岸田國士『春秋座の「父帰る」』(1924)
一人称でもモデルに変化なし
一人称で使われる「感動を与えられる」「感動を受ける」では、先ほど図示した「乙女モデル」が変化したのでしょうか?
そうは言えません。事態の本質は、そのままです。
「なる」表現の一種である
というのも、専門的に何と言うかは知りませんが、日本語は《「なる」表現》にシフトしやすい言語だと言えるからです。
「なる」表現の例
このような例で考えてみれば、分かりよいかと思います。
- あなたはこの週末に、みんなで鍋でも囲もうかと思い、気の置けない友人たちを誘います。
- ところがみんなの予定を聞いてみると、どうも来週の方が全員が集まれそうです。
- そこであたなたは、開催を1週遅らせることにして、みんなにメールで連絡します。
そのとき、メールの文面はどうなるでしょう。
- 今週予定していた鍋の件、来週に延期になりました。
となるのではないでしょうか。
しかし、この事態をより厳密に記述するならば、
- …鍋の件、来週に延期しました。
であるはずです。なぜなら、延期の判断をしたのはあなただからです。したがって、あなた目線のあなた主語で書くのが最もシンプルです。
しかしどういうわけか、日本語の生理は必ずしもそれをよしとしないのです。
いろいろな事情があっての結果、そういう判断に「なる」わけですから、ここで「延期になりました」と書くのも決して間違ってはいません。いや、むしろそう書くことを好ましく感じる人の方が多いかもしれないぐらいです。
どうも、日本語はこうした「なる」表現にシフトしやすい言語であるようです。
小まとめ
「感動を与える/受ける」という表現は、辞書での説明と用例から鑑みれば、「なる」表現の一種であると考えられます。感動を「与える/受ける」と表現されていても、そこで感動そのものが授受されているわけではありません。
ここまでの記述のしかたであれば、「乙女モデル」で表されている事態は変わりません。
3.気持ち悪さの源泉は、感動のコモディティ化
さて「感動をありがとう」です。
例として使っている「乙女 パスタに感動」を、「ありがとうモデル」で図示すると、こうなります。
図2(ありがとうモデル):乙女 パスタに「感動をありがとう」
金銭こそ発生していませんが、完全に、乙女-パスタ間での取引図です。
「感動のコモディティ化」が起こっています。
コモディティとは
「感動をありがとう」が気持ち悪いのは、感動を取引しているからと述べました。そこには前提条件として「感動のコモディティ化」が起こっていると言えそうです。
コモディティ(commodity)とは、経済学用語で「市場で取引される商品や原材料」を言います。たとえば金(ゴールド)や原油、小麦や大豆などがそうです。
「○○相場」とか「○○市況」とか言われるうち、通貨・有価証券以外のものととらえれば、だいたい合っているかと思います。
感動の外部化
「感動を取引している」といっても、カネ・対価が発生するとか、金銭の授受を伴うとかいった意味ではありません。
しかしそこでは、
- 感動とは乙女の問題だったはずが、パスタの問題になってしまっている。
と言えます。あるいは「感動の外部化」が起こっているとも言えるでしょう。
取引対象として扱われる「感動」
感動がコモディティ化すると、容易に「市場がある」という発想へとつながります。すなわち、感動が「取引できる」という考え方です。
証拠:「ありがとうモデル」での感動は、「届ける」「もらう」もの
「感動をありがとう」という人たちは、感動を取引しています。たとえ金銭は伴わずとも、感動が外部化され、コモディティ(商品)扱いされていることは間違いありません。
その何よりの証拠が、「ありがとうモデル」では感動を「与える/受ける」ではなく、しばしば「届ける/もらう」と表現することです。
「与える/受ける」との違い
感動を「届ける/もらう」という表現は、「与える/受ける」よりも直截です。
先ほど確認したとおり、「与える/受ける」には「対象に抱く思いを受動的な視点でとらえる」という、いささか込み入った用法があります。しかし「届ける/もらう」の場合、そうした用法は一般的ではありません。
「なる」表現にシフトしやすい日本語であっても、「感動をもらった」が「感動した」を意味するところにまでシフトできません。
小まとめ:感動は「届ける/もらう」ようなコモディティではない
「ありがとうモデル」では、感動という内心の事態を、必要に応じておのれの外部から調達ができる「コモディティ」として扱っています。
まず、そういうもののとらえ方が気持ち悪いです。
だからほんと、感動を「届けます」とか「もらいました」とか、やめてほしい。気持ち悪いから。
まとめ
以上の議論をふまえて、くり返します。
「感動をありがとう」という人は、見た目は人の形をしていますが、人間には見えません。
感動を外部化するのと引きかえに、人間としての何か大事な部分を、売り渡してしまっているからです。
だから気持ちが悪いのです。嫌いです。
ご静聴ありがとうございました。
コメント
真の知性を見た想いです。感動しました。私も貴方のような論理的思考ができるようになりたいです。
感動をありがとう、というフレーズってなんかお決まりな感じするけど何がきっかけなんだろう?と調べてたどりつきました。ずいぶん昔の記事のようですみません。私は感動を覚えた時に必ず「感動をありがとう」とは思うわけではありませんが、「感動をありがとう」という気持ちになる時があります。私の中では、ただ感動することとありがとうと思うことはそもそも別の感情を表現しています。綺麗な景色を見て感動するとか友人の優しさに感動するとかいうことは普通にありますが、大人になると心を動かされる出来事って学生時代よりは減ったなと思います。そんな中、例えばスポーツやアイドルの舞台裏の苦労なんてものは、景色や優しさのようにただそれに触れて感動するということではなく、かつて自分が何かに打ち込んで挫折をしながらも努力をしたこと、仲間とぶつかり合いながらも友情を育んだこと、等、懐かしい気持ちとリンクして呼び起こしてくれるものです。なので、彼らのコンテンツ自体にありがとうと言っているというよりは、そういった自分の体験を重ねて追体験させてもらうことに対して、勝手ながら感謝しています、という気持ちです。なので、感動の授受ではないのです。体験を(メディアなどを通して)共有してくれることに対してのありがとう、な気がします。いろんな感じ方があると思うので、こちらの記事を否定する気は無いのですが、感動をありがとうと言いたい気持ちは例えばこんな気持ち、というコメントでした。