こんばんは。林修ナイトの時間です。
これもまた《あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう》(岡村靖幸, 1990)みたいに言ってみる試みです。
この記事で言いたいこと
諸事情抜きで述べると、林修さんの「ら抜き言葉」観は40年以上遅れています。
日本語マスター
林さんは、日曜日の「日本語探Qバラエティ クイズ!それマジ!?ニッポン」に、日本語マスターとして出演されています。
そこで林さんが頻繁に指摘するのが、「ら抜き言葉」です。
「ら抜き言葉」とは、可能の助動詞「られる」を使うべきところに、「着れる」「食べれる」のように「れる」を用いる表現のことです。2月の番組開始当初から、こんな具合に厳しくチェックされています。
「この番組は楽しく学べて、家族で“見れる”番組だなと思います」とうっかり“ら”抜き言葉で視聴者アピール…。すると、「今も“見れる”と“ら”抜き言葉になっていましたね」と、すかさず厳しいチェックを入れた林先生。
出所:『日本語探Qバラエティ クイズ!それマジ!?ニッポン』|番組・イベント最新情報「とれたてフジテレビ」(2014/01/28付)
『典子の生きかた』を読んでみた
さて、林修さんは別の番組(3/25 今でしょ!講座)で、伊藤整の小説『典子の生きかた』(1940)がセンター試験に出題された際の「珍事件」を紹介されていました。それをきっかけに、1995年センター試験「国語」第2問に出題された部分だけでなく、『典子の生きかた』全編を読んでみました。
ら抜きがいくつもあった
ストーリー以上に目を惹いたのは、文中にら抜き言葉がいくつも出てきたことです。目に留まった限りを引用します。
朝はゆっくり寝ていれないし。 (一)
もう一度見やったが、顔もぼんやりとしか見れなかった。 (三)
そのときの、もう大丈夫だ、私は起きれるという意志だけで立ちあがる気持は、彼女の慣れっこになっている古いものだった。 (四)
1つ2つ見落としがあるかもしれませんが、こんな具合です。
ら付きも使う
かと思えば、「見る」の可能表現で
客の顔もはっきり見られるようになった。 (四)
と、らの付いた「正統」も使っています。
当然ながらと言いましょうか、用例としてはこちらのパターンの方がずっと多いです。
ら抜き使いの伊藤整
検索してみたら、伊藤整(1905-1969)が「ら抜き」を使っていた例を紹介しているページがいくつか見つかりました。
伊藤整による「ら抜き」は、事例としてさほど珍しくもなさそうです。
建設的な「ら抜き」考が1977年時点で既にあった
後者では、「ら抜き」に関する1977年の朝日新聞のコラムが紹介されています。そこには、「ら抜き」を誤用扱いしない解釈が具体的に提示されていました。
目下の自分の興味関心は「ら付きを正統とする“教義”が、いつ頃、どのように確立されていったのか」へと移っています。
まとめ:何周回遅れ?
以上をふまえると、「ら抜き言葉」を一律に排撃していいものか、疑問が生まれます。本件に関しては、遅くとも1970年代後半には一度検討され、それなりの見解も示されています。
他のジャンルに目をやってみれば、碇シンジ(1995-96)もアムロ・レイ(1979-80)も、戦うことの正義に悩んでいました。さらにさかのぼれば、仮面ライダー(1971-73)もデビルマン(1972-73)も、おのれの出自と自らの使命との間で苦悩していました。
別のジャンルでは、時を違えずにより上位のテーマが提示されてもいたわけです。
そういったケースと比べてしまいますと、大衆向けの教養娯楽番組であること、「日本語マスター」という役どころでのポジショントークであること、また先の番宣ページでも
「気にしすぎることはありませんが、日本語そのものを楽しんで使ったり考えたりしてもらえればいいと思います」
とコメントされていることを差し引いても、林さんが「ら」抜きをひたすら目の敵にし続けるさまが、ただただ能天気に映ります。
40年以上遅れています。
こちらからは以上です。
コメント