こんにちは。
はじめに
このごろ、「言いたいであろうこと」と「実際に言われていること」との乖離に興味があります。
この記事はひとつのケーススタディです。
「はじめ」に
前にこんなツイートをしました。こちらに取りかかることにします。
大阪から東京へ移った芸人さんが異口同音に語る「出てきた頃は今ほど近くなかった」。本当なのか、一度検証してみたい。 → 「面白いと楽しいは違う」-【取材】千原ジュニアが語る、仕事を楽しむ「20代・30代の生き方」 | http://t.co/DyqyJMsIHQ
— ヤシロタケツグ (@yashiro_with_t) 2014, 3月 8
結論
東京で活躍する大阪芸人さんが異口同音に語る「出てきた頃は東京が今ほど近くなかった」とは、本当はこういう意味です。
- 自分が東京に出てきた頃、ものすごくアウェー感を感じた。
- 東京へ出てきて間もない後輩が、自分と同じだけのアウェー感を感じているようには思えない。
後者について、主観的事実であることは否定しませんが、客観的にもそうであるとは認めがたいです。
1)千原兄弟・千原ジュニアさん(1974年生まれ)のケース
上のツイート内でリンクした記事で、千原ジュニアさんはこう述べています。※下線は引用者
20代前半は大阪で仕事をやらせてもらって、毎日テレビに出させてもらって、お客さんも若いから「キャー、キャー」言われて。今ほど大阪と東京の距離が近くなかったんで、正直その頃大阪ではテレビに出てるから道を歩かれへんという状況で、でも東京来たら誰も知らないみたいな。そんな国内時差がありました(笑)
記事タイトルを再掲しておきます。
「面白いと楽しいは違う」-【取材】千原ジュニアが語る、仕事を楽しむ「20代・30代の生き方」|U-NOTE(2014/03/07付)
なお記事タイトルの左上に小さく「PR」と付いています。さしあたり僕にとってはどうでもいいです。
下線を引いた「今ほど大阪と東京の距離が近くなかった」を考えます。
証言:国内時差はあった
僕の経験からも、千原ジュニアさんの言う「国内時差」は証言できます。
1997年のことです。僕は数分間だけ、夜の赤坂の街をスタッフらと一緒に歩くジュニアさんの2~3m後ろを歩いた経験があります。その日、草月会館のホールで千原兄弟のライブがありました。その終了後の話です。
そのとき、すれ違う人の中で「あっ」とジュニアさんに気づいた様子を見せた人は全部で数人、体感的に述べて20~30人にひとりぐらいでした。
場所柄おっちゃんが大半だったにしても、ライブで大阪城ホールを満員にした(1995)とされる実績からすれば寂しすぎる街の反応でした。
「国内時差」と「大阪と東京の距離」を2時点で比較してみると
1997年当時と、現在(2014年)との国内時差および距離を比較してみるとすれば、どうなるでしょうか。
たしかに現在、東京でも売れっ子になって久しい千原ジュニアさんにとって、当時あった「国内時差」はとうに解消されていることでしょう。
しかし今日のこの現時点で、同様の「国内時差」を感じる後輩の大阪芸人も多いはずです。当人に確認したわけではありませんが、千鳥やシャンプーハットも、感じているように思われます。
大阪の芸人さんたちの多くは、今なお「大阪と東京の距離」を20代前半当時のジュニアさんと変わらず感じているに違いありません。
つまり「大阪と東京の距離」とは、芸人さんが個々人それぞれのキャリアの過程で経験する事象です。
キャリアの中で伸び縮みするものですから、たとえば1997年はこれぐらい、2014年はこれぐらいと、ある時点ある時点で定説とできるような一意に決まった値があるわけではありません。
そのことは、上の世代である松本人志さんによる著述と対比することでも確認できます。なお年齢で言えば、松本さんはジュニアさんと11歳離れています。
2)ダウンタウン・松本人志さん(1963年生まれ)のケース
使用するテキストはこちらです。
初出は週刊朝日の連載です。『遺書』(1994)『松本』(1995)で単行本化された2冊が文庫で1冊にまとまっています。
そのなかの「大阪は笑いのメッカではない 笑いに閉鎖的なのである」で、松本さんはこんなことを書かれています。※下線は引用者
大阪芸人も図に乗ってる奴が多い。いま日本のお笑いはチョットした大阪ブームらしい。確かに東京ローカルのバラエティ番組を見ていても、大阪弁が氾濫している。大阪芸人はかなり増えた。しかしそれもオレが思うに、あの漫才ブームの人たちや、ダウンタウンががんばって東京に道を作ったからである。《大阪芸人はおもしろい》という認識を定着させたのは、我々の努力である。
それとわかっているのか、いないのか、中途ハンパな大阪芸人が当たり前のような顔をして、どんどん東京に流れて来やがる。我々の作った道路を鼻歌まじりで歩いてやがる……。(p.170)
単行本だと『松本』収録分です。初出の号数の特定までしていませんが、1994年後半に書かれたと推定されます。
『遺書』のパートにさかのぼりますと、「大阪の芸人は2回売れなくてはならない」でこうも述べています。
東京で売れたいのなら、楽をしようとせずに、もっともっと努力しろバカタレ!(少なくともダウンタウンは、大阪をすべて断ち切り、深夜番組で冷たい客の視線を受けながら毎週、漫才をやったぞコノヤロー!)(p.21)
当時の松本さんの目には、大阪での人気沸騰ぶりを示す「伝説」と一緒に東京へ乗り込んできたかたわら、数を減らしたとはいえ、大阪でも引きつづきレギュラーを持っていた千原兄弟が、「当たり前のような顔をして流れて来た」「中途ハンパな大阪芸人」の一員に見えていたかもしれません。
まとめ
くり返しますが、芸人さんの言う「大阪と東京の距離」とは、芸人さん個々人のキャリアの中で主観的に伸び縮みするものです。「西暦何年にはこれぐらい」と、その時々で客観的に定説となれるだけの値があるものではありません。
そして、どの世代の大阪芸人さんも、自分のあとから東京にやって来た後輩に対しては、かつて自分が感じた「国内時差」「アウェー感」を同じような強烈さで感じているように思えない。そんな気持ちになるのではないかと考えられます。それはある意味で、他者理解への限界を示す事例にも思えます。
次回予告的な何か
個々の芸人さんが東京に出てきた当時の内心を測定する術がありませんので、いずれ、客観的データでもって「大阪と東京の距離」を推測してみたいと思います。プランだけは持っています。
つづく予定
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