こんにちは。ちょっとしたタイムトリップから帰ってきました。
それにちなんで、積年の疑問と、解消に向けての大ざっぱな仮説とを雑に述べます。
要約:Executive Summary
世の中の「タイムトラベルもの」には、考え出すとわからなくなってしまう重大な矛盾があります。
それは、旅行者にとって、行き先の時代と当人とのあいだで時間の帳尻が合っていないことです。
どの時代に行ったにせよ、時間旅行者にとって結局そこは「今」なのではないか?という疑問に、知る限りではどの「タイムトラベルもの」からも明快な答えが出てきていません。
バック・トゥ・ザ・フューチャー ― オリジナル・サウンドトラック
「タイムトラベルもの」の例いろいろ
思い浮かべる例は何でもいいです。漫画・アニメの『ドラえもん』、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズ、テレビ番組だと、NHKの「タイムスクープハンター」などなど。
あるいは映画「戦国自衛隊」(1979)(古いな)とか、手塚治虫の『火の鳥(異形編)』みたいな、“旅行者”の意志によらずに時間を移動してしまう「タイムスリップもの」を想定しても構いません。本質は同じです。
用語の定義
本稿では、別の時代へタイムトラベルをする側を「ゲスト」、時間旅行先である過去なり未来なりの世界の住人を「ホスト」と呼ぶことにします。
「ゲスト」と「ホスト」の非対称性
そんな状況を想定したとき、旅行者である「ゲスト」と旅行先にいる「ホスト」が非対称であるがために整合が取れなくなってきます。
こんな想像上の実験をすれば、それがわかります。
(1)ホストの場合
たとえば「今、ここ」に、過去か未来からやって来たゲストが突然現れたとしましょう。ちょうど『ドラえもん』の冒頭で、のび太のもとに未来からドラえもんがやってきたシーンのようにです。
ホスト(のび太)にとって、ゲスト(ドラえもん)との遭遇から始まる一連の体験は、すべて「今、ここ」の出来事です。
ホスト側の体験は、特にどうということはありません。
(2)ゲストの場合
今度は立場を入れ替え、反対に旅行する側の「ゲスト」になったと仮定します。過去なり未来なりに行って、その世界や住人であるホストと接触し、いろいろ体験するとします。
ここで疑問が生まれます。はたしてそれは、過去/未来に行ったことになるのでしょうか。ゲスト(自分)にとって、それを体験しているのは、まさに「今」なんじゃないでしょうか?
『ドラえもん』の例で言うと、未来からやって来たドラえもんにとって、「今、ここ」の現代とは「過去」なのでしょうか?
そうではなくて、
- 現代を舞台に未来の道具を「今」使っている
『ドラえもん』とは、そういう物語になるのではないのでしょうか。ドラえもん本人(本猫/本ロボット)にとっても。
結局、よくできた「カリブの海賊」では?
たとえるなら、タイムトラベルをするゲストにとって、旅行先の世界とは結局、ディズニーランドにある「カリブの海賊」のよくできたやつ、なんじゃないのでしょうか。
どれだけ現代世界と遠く隔たった時間・空間に移れたとしても、結局それは「今」の経験としか言えない。そう思えてなりません。
長期滞在のケースで考えると矛盾が際立つ
僕の言うタイムトラベルの矛盾は、「長期滞在」のケースを考えると際立つように思います。
想像実験:1泊2日・10年のタイムトラベル
たとえば今日、過去なり未来なりのタイムトラベル先に行ったとします。そして、そこにたとえば10年いたとしましょう。そうすると、訪問先で10年老けるはずです。
そして10年の滞在を終え、たとえば出発の翌日に戻ってきたとしましょう。そうしたとき、10年老けていないと話がおかしくなります。
「お見送り」の側からは、こうなるはず
同じケースを、今度はタイムトラベルしない側から述べてみます。
たとえばある週末、あなたが土曜出発・日曜帰宅、1泊2日で滞在10年間のタイムトラベルをして帰ってきたとしましょう。週明けの月曜にあなたに会った同級生や同僚からすると、週末会わないあいだに、あなたが10歳老けていることになります。
そうでないと話のつじつまがありません。
「浦島太郎」の整合志向
その点、「浦島太郎」の物語の方がまだ整合を取ろうとする姿勢が見られます。竜宮城から帰ってきて、まさに「浦島太郎状態」となった太郎が玉手箱を開けると、煙とともに白髪の老人になります。ラスト近くは、まあそんな筋書きです。
老けることによって、時間面での矛盾が解決されます。こちらの方がよほど合理的な話に思えます。
「調整機構が働く」設定にも無理が
その矛盾を解消させようとして、「今」と「過去」「未来」間を移動する際になんらかの調整機構が働いている。そんなふうな設定を置くことも可能ではあります。しかしそう仮定してみても、無理が生じます。
その発想に立てば、たとえば自分が生まれる前の過去に行ったとして、なぜその時代に自分が「生まれて」いられるのか、説明が付きません。矛盾しています。
となると、タイムトラベルをするゲストにとって、結局その体験をしている時は「今」としか言いようがなくなります。
指摘されて以来の難問
というようなことは、僕がオリジナルに考えついたのではありません。以前に永井均さんが『マンガは哲学する』(2000, 2009)で指摘されていました。
「第四章 時間の謎」に、『火の鳥(異形編)』のエピソードをベースにしたこんな記述があります。※強調部は原文傍点
私がタイムマシンで三十年前にもどり、高校生の自分に会ったとしよう。そのとき彼が私を殺したからといって、私に何か特別のことが起きるだろうか。私は、ただ四十七歳で死ぬだけのことではないのか。
問題は、過去にもどったはずなのに、なぜ《私》は高校生の側でなく殺されるおやじの側なのか、ということである。これは過去に戻ってなどいないということではないか。
雑すぎる仮説
さしあたり今ぼんやりと思っているのは、
- 時間は空間から生まれているのではないか
そんな仮説です。自分が言いたいことの2割ぐらいしか言えてませんが、現段階ではこれで精一杯です。
まとめ
誰もが一度は関心を持つだろうテーマなので、この矛盾に対して誰かが既に世界のどこかで一定の成果を挙げている気もします。そこをあえてカンニングせず、自分だけでどこまで考えていけるかの課題にして、すき間の時間でちょいちょいと考えを進めていくつもりでいます。
それでも《タイムマシンにおねがい》(1974)できるなら、そこをどうにかしてほしいです。
【2016/03/20追記】続編のご案内
続編を書きました。
高濃度コメント欄への返信―タイムトラベルものの絶対矛盾?(2)
下欄にコメントをいただいている「カモメのロック」さんへの返信となります。
コメント
はじめまして。ヤシロさんのブログが大好きで、いつも更新を楽しみにしています。
愛の反対の話、右側通行の話、誤訳で原爆投下の話、賃貸アパート経営の話、五輪エンブレムの話がとくに好きです。
更新を待つ間に過去ログをたどっていたところ、この記事を見つけました。
『ヤシロぶ』も「タイムトラベルもの」も大好きなわたしは喜んで読みました。
しかし、何度読み返しても、ほとんどまったく内容が理解できません。
どんな「タイムトラベルもの」の例を思い浮かべたとしても「本質は同じ」で、「重大な矛盾」があり「時間の帳尻が合っていない」。そして、知る限りではどの「タイムトラベルもの」からも、矛盾を解決するような「明快な答え」は出ていない。そのようにヤシロさんは書かれています。
ヤシロさんの投げかける問いの意味がわたしにはほとんど理解できませんが、それでも、ヤシロさんが深淵を覗きこんでいるらしいということだけは、なんとなく察知できるのです。だから、歯がゆくて悔しいのです。
ヤシロさんが例に挙げた5つの作品はどれも見ています。(『ドラえもん』は昭和生まれの一般教養レベルでしか知らず、『タイムスクープハンター』はヒトの家で2つか3つ観ただけですが)
ヤシロさんの文章はわかりやすく、日本語の読解においてはなんの支障もありません。
にもかかわらず、この記事が掟の門番のように立ちはだかっています。
●「時間旅行者にとって結局そこは『今』なのではないか?」という問いについて
ヤシロさんの問いの中で、わたしには、これが最も難解です。文字通りの意味は理解できていると思いますが、なぜそのようなことが問われているのかがわからないのです。
— 考察1 —
「時間旅行者が体験する未来や過去は、彼自身にとって『今』なのではないか?」
と問うためには、その前提として、
「時間旅行者が体験する未来や過去は、彼自身にとって『今』ではない」
という命題の存在が不可欠ですが、そのような認識に基づいた作品にわたしは出会ったことがありません。誰もそのような主張をしていないように思うのです。なぜ誰も主張していないことを否定しなければならないのか。なぜ自明な事実をあらためて確認するのか。それがわからないのです。
「時間旅行者が体験する未来や過去は、彼自身にとって『今』ではない」
と主張する人や作品があれば教えてください。
わたしの知る限りでは『ドラえもん』は普通の「タイムトラベルもの」ですので、そのような立場では語られていないと思います。『ドラえもん』が手元にないので実例を引用できませんが、下記のシミュレーションは容易に成り立つと思います。
しずかちゃんが、のび太の家に電話をかけ、ちょうど夕食中のドラえもんを電話口に呼び出し「ドラちゃんは、いつ晩ごはんを食べたの?」とたずねるとします。ドラえもんは「いま食べてるところだよ」と答えるでしょう。セワシくんが22世紀からタイム電話をかけてきて「いまどこにいるんだい?」と訊ねたとしても、ドラえもんは「いまのび太くんちにいるよ」と答えるでしょう。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』ではマーティーが次のように語ります。
「ドク! ぼくは未来から来たんだ。あなたが発明したタイムマシンでここにやってきたんだよ」
マーティーは1985年を「未来」、1955年を「ここ」とよんでいます。つまり1955年が「今」であり、だからこそ『バック・トゥ・ザ・フューチャー』という倒錯した題名になっています。
— 考察2 —
ヤシロさんは次のように問われています。
> 過去なり未来なりに行って、その世界や住人であるホストと接触し、いろいろ体験するとします。
> ここで疑問が生まれます。はたしてそれは、過去/未来に行ったことになるのでしょうか。
> ゲスト(自分)にとって、それを体験しているのは、まさに「今」なんじゃないでしょうか?
> 未来からやって来たドラえもんにとって、「今、ここ」の現代とは「過去」なのでしょうか?
これを読むと、ヤシロさんが「過去」「未来」とよんでいるもののシニフィエが、わたしのそれとは違うようです。ヤシロさんは《今ならば過去/未来ではない》という排中律を前提とされているようですが、その命題はどんな事実・推論をもとに成り立つのか、「今」や「過去/未来」をどのように定義されているのか、私にはわかりません。一般的には、それぞれの時間軸においての相対的な位置関係を指し示すために「過去」や「未来」という言葉を用いるので、絶対的な過去や未来と呼べるものはありません。あくまで相対的なものですので、ある立場から見た過去が、別の立場から見れば未来でもありえます。これは、空間上の位置関係を前後・左右・上下・東西とよんで相対的に指し示すのと同じです。
ヤシロさんは、次の問いにはどのようにお答えになるのでしょうか。
東なり西なりに行って、その世界や住人であるホストと接触し、いろいろ体験するとします。
ここで疑問が生まれます。はたしてそれは、東/西に行ったことになるのでしょうか。
ゲスト(自分)にとって、それを体験しているのは、まさに「ここ」なんじゃないでしょうか?
西からやって来たドラえもんにとって、「今、ここ」の地域とは「東」なのでしょうか?
わたしの場合は、これらの問いにも前述のヤシロさんの問いにもまったく同じ答えを返します。
Q1: はたしてそれは、過去/未来(東/西)に行ったことになるのでしょうか。
A1: はい、なります。
Q2: それを体験しているのは、まさに「今(ここ)」なんじゃないでしょうか?
A2: はい、そうです。
Q3: 未来(西)から来たドラえもんにとって「今、ここ」とは「過去(東)」なのでしょうか?
A3: はい、出発点から見ればそういうことになります。
— 考察3 —
ここまで書いて、ヤシロさんは『スローターハウス5』や『タイタンの妖女』のようなタイムトラベルを想定されているのではないかと思い至りました。そう考えると、時空に遍在する立場から見た「過去・現在・未来」は、たしかに、われわれが日常で感じるところのそれとは違うので、Q1・Q3に「いいえ」と答えることもできそうです。
つまり、時空を一望する立場から見れば、「過去・現在・未来」の区別は価値がなく、あらゆる時点は「今」であり、「未来に行く」とか「過去から戻る」いう表現は「今から今に行く」とか「今から今に戻る」という表現と同等に無意味で、すべてはあるようにあるだけだ(「そういうものだ」)と、ヤシロさんはおっしゃられているのでしょうか。
だとすれば、わたしもその世界観に完全に賛同するものですが、『スローターハウス5』のトラルファマドール星人も、われわれが「左・右」を区別するようなレベルでは「過去・未来」を区別すると思いますし、それを「矛盾」とは言えないのではないでしょうか。
●「想像実験:1泊2日・10年のタイムトラベル」について
10年の滞在を終えて戻ってきたとき、10年老けていないと話のつじつまがあわない、とヤシロさんは主張されています。しかし、「老ける」かどうかという点においては、ほとんどの「タイムトラベルもの」のつじつまは合っているように思えるのです。
「老ける」という言葉は、日常的には「老いる」とか「年寄りじみる」とか「実年齢より年上に見える」とか、そういう意味で使いますが、ここでヤシロさんのいう「老ける」の定義とは、《その時間を生きた証としてなにがしかの痕跡が残ること》だと解釈しました。その定義にしたがえば、「エステに通って肌年齢が10歳若返る」のも「増毛治療でフサフサになる」のも、「ぼーっとしてただけなのにお腹が減る」のも「レンジでチンして2分でご飯が温まる」のも「時計の秒針が進む」のも、すべて「老けて」いると言えます。
「矛盾がある・帳尻が合っていない」例としてヤシロさんが挙げている『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『火の鳥(異形編)』でもちゃんと「老けて」います。それらも含め「老けて」いると見なせる例を4つあげてみます。
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1、ロバート・ゼメキス『バック・トゥ・ザ・フューチャー』
主人公マーティーは1955年で7日と16時間4分をすごします。1985年へ帰ってきた日の朝、マーティーは前日に会ったばかりのはずのジェニファーとこんな会話をします。
マーティー :ジェニファー、ああ、君に会えて感激だよ。君の姿をよく見せて。
ジェニファー:マーティー、まるで一週間も会ってなかったみたいな言いかたね。
マーティー :そうさ、会ってなかったんだよ。
マーティーは一週間ぶん「老けて」います。
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2、手塚治虫『火の鳥(異形編)』
左近介は1498年(明応7年)に17歳で城を発ち、蓬萊寺で八百比丘尼を殺して1468年(応仁2年)を入り口としたループにはいります。
以後30年を八百比丘尼になりかわってすごし、ループが一巡して蓬萊寺に1498年がめぐってきたとき、47歳の八百比丘尼は、自分を殺しにやってくる17歳の左近介を待ち受けます。
左近介が八百比丘尼に出会うとき、八百比丘尼は30年ぶん「老けて」います。この作品は漫画なので「老けて」いる描写を文章で引用できないのですが、八百比丘尼の顔に左近介にはない豊麗線が描かれていることが「老けて」いる証拠です。
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3、H・G・ウェルズ 『タイムマシン』
「時間旅行家」は木曜日の午後4時に出発し、同日午後7時30分に帰還しました。かれを待つ友人たちにとっては3時間半しか経っていませんが、かれ自身は旅先で8日間ほどを過ごしました。かれが帰ってきた時の様子は第二章で次のように描写されています。
「時間旅行家は見るも無惨な姿をしていた。服は埃と泥にまみれ、袖の先まで緑色のものがこびりついていた。頭髪は乱れ、いよいよ白いものがふえているように思われた──埃や泥のせいだったのか、実際に色あせたのだろうか。顔は死人のように青白く、顎には茶色の切り傷の痕があった──半ばなおりかけていたのだが。表情はやつれてゆがみ、病魔にさいなまれたかのようであった。[中略]びっこを引いており、いつか見た足の悪い浮浪者そっくりだった。」(新庄哲夫訳)
時間旅行者は、旅先での滞在のぶんだけ「老けて」います。
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4、筒井康隆『七瀬ふたたび』
この作品には「老ける」ことについて明示的に書かれている箇所があります。
未読の場合にはネタバレになります。
「藤子は時間旅行者であった。藤子が実際の年齢よりずっと歳上に見えたのは、彼女が何度も時間をさかのぼり、同じ時間を二度生きたためであった。つまり藤子は同じ年齢の人間よりもそれだけ長い時間を生きてきたことになる。客観的には十七歳だが、藤子が生きてきた時間を年に換算すればそれは十七年をはるかに越し、主観的にはさらに数年、歳をとっていることになるのだ。」(第三章「七瀬 時をのぼる」から)
時間旅行者は「老けて」います。
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『恋はデジャ・ブ』や『バタフライ・エフェクト』のようなタイプの「タイムトラベルもの」では、肉体的には「老けて」いませんが、経験が記憶に蓄積されていてるので精神的には「老けて」います。
「老けて」いない「タイムトラベルもの」というのは、具体的にどの作品のことなんでしょうか。
● 「『浦島太郎』の整合志向」について
玉手箱の煙で白髪の老人になることで矛盾が解決されるという主張は「滞在期間のぶんだけ老けなければ、つじつまが合わない」というヤシロさん自身の主張に反していませんか?
『御伽草子』によると、浦島太郎は竜宮城で3年過ごして帰ってきたら700年たっていたそうです。この場合、浦島太郎は、玉手箱を開けるまでは3年ぶん「老けて」います。つじつまが合っているのではないでしょうか。ヤシロさんが、何を「矛盾」とされているのか、なぜ玉手箱の煙による老化で「矛盾が解決され」ることになるのかが理解できません。
浦島太郎型の「タイムトラベルもの」としては『猿の惑星』が有名ですが、ヤシロさんの「先生」である藤子・F・不二雄さんの作品にも『旅人還る』や『一千年後の再会』などいくつかありますね。このタイプの時間旅行は原理的には実現可能だという点が他の時間旅行と違います。ウラシマ効果によってわれわれ誰しもが日常的にごく小さな時間の遅れを経験しているという意味では、すでに実現していると言って良いです。GPS衛星の原子時計は地上との時間のズレを補正するように調整されていますが、あくまで時計を調整しているだけであって、時間そのものを操作しているのではありません。
● 永井均さんの『マンガは哲学である』からの引用部分について
永井均さんの『マンガは哲学である』を読んだことがないので、ヤシロさんが引用されている範囲でのみ思うところですが、これは擬似問題なのではないかと思いました。「[高校生の自分が四十七歳の私を殺したからといって]私に何か特別のことが起きるだろうか」と問われていますが、引用文を読んだ限りでは「1+1=2だからといって、私は貝になれるのだろうか」という問いと同レベルの、誰も主張していないことを否定している無意味な問いに思えます。ただし、「特別のこと」を具体的に定義した上で、「高校生の自分が四十七歳の自分を殺す」という前提と「何か特別のことが起きる」という結論との論理関係が示されれば、この問いも意味をなすのかもしれません。
「過去にもどったはずなのに、なぜ《私》は高校生の側でなく殺されるおやじの側なのか[中略]これは過去に戻ってなどいないということではないか。」という問いも擬似問題(あるいは藁人形)だと思います。これだけでは「過去に戻った」という言葉が何を指しているのか特定できず、推測するのみですが、かりに左近介が応仁2年にタイムリープしたことを言っているのなら、そのときに初めて応仁2年に行くわけですから「戻った」とは言えません。あるいは30年後の明応7年が巡ってきたときを指して「戻った」といっているのであれば、「今年も寒い冬が戻ってきた」というレトリックのレベルの「戻った」であって、去年と今年の冬が別のものであるのと同様に、実質的には戻ったのではありません。八百比丘尼47歳での明応7年は、彼女の時間軸では享禄元年(1528年)であって、17歳での明応7年(1498年)と同じではないからです。あるいはまた、「過去に戻る」という言葉に「17歳である自分に戻る」という意味を内包させているのであれば、八百比丘尼は17歳の左近介に戻ったことはありませんので、『火の鳥(異形編)』とは無関係な問いです。
おそらく「同じ西暦(元号)の年を二度体験する」ことを「過去に戻る」と曖昧に(かつ不正確に)表現した上で、その言葉のうちに「17歳である自分に戻る」という意味をぼんやりと内包させてしまうと、上記のような問いが発せられるのではないかと思います。整理すれば、次のような論理があるのではないでしょうか。
大前提:過去に戻っているならば、私は17歳の高校生である。
小前提:私は17歳の高校生ではない。
結論 :ゆえに過去に戻っていない。
この推論は形式的には妥当ですが、これらの命題が『火の鳥(異形編)』についてのものだとすれば、大前提は事実誤認であり、あの話の中で八百比丘尼は《過去》にも《過去の自分》にも戻りませんので、語るべき対象を取り違えている不当な推論です。「過去に戻っているならば、私は17歳の高校生である」という設定で語るならば、『時をかける少女』のほうが題材としてふさわしいと思います。
以上、原文を読まず、あくまで引用された文章についてのみ思うところですので、上記の内容は実在する個人・書籍とは無関係なものだと思います。いつか原本を読んでみたいです。
こんな長いコメントを何度も書き込んですみません。
言いたいことは以上です。
今後も更新を期待しています。
カモメのロックさま
コメントありがとうございます。5通分拝読しました。
一読して、私の考察が及んでいない域に至ってらっしゃるなあと、感じいっております。
いただいたご指摘・ご考察をふまえた続編を用意して、そちらで自身の考えをつなぎながら整理しようと思います。
当記事をきっかけに真剣に考えていただいたようで、重ねてお礼申し上げます。
以上取り急ぎ。
永井均さんの書籍のタイトルは『マンガは哲学である』ではなく『マンガは哲学する』でしたね。
原文をまったく読まずに批評しているので、『マンガは哲学である』という架空の本について述べたともいえるのですが、本筋じゃないところでややこしくなるので訂正します。失礼しました。
続編を楽しみにしています。
私も全く同じ考えの”今”です。現在はこの過去へのタイム
トラベルを、宇宙の創成時の最大の問題である、宇宙の始まり
の、宇宙を創りだせるほどのポテンシャルエネルギーが、ど
のようにしてゆらぎの無からできたのかという問題の解決の、
その一つの仮説として考えていますので、紹介します。
タイムトラベル新理論
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=320308&filter=date&from=menu_d.php%3Fstart%3D120
ビッグバン新理論
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=320363&filter=date&from=menu_d.php%3Fstart%3D60