アンニョンハセヨ。
ラインと言えば李承晩の年齢層が、高齢を笠に着て語ります。
※画像は、海上保安レポート2004(mlit.go.jp)より
この記事で言いたいこと:Executive Summary
1.
「既読無視」という言葉には、奇妙な前提が隠れています。「相手から返事があって当然」という前提です。
僕から言わせれば、それは有史以前の、原始人の考え方です。相変わらずにもほどがあります。
2.
社会心理学の分野に「reciprocity」という術語があります。「返報性」「互恵性」などと訳されます。ざっくり言えば、「人から何かしてもらったら、お返しをする」という発想・行動原理を指します。
この返報性(互恵性)、人類の間でそれこそ10万年単位で機能してきました。しかし、近年になって不具合を起こすケースも増えてきています。社会構造の変化により、「人から何かしてもらう」という機会が近代までの社会と比べて爆発的に増加したためです。テクノロジーの発達もそこに貢献しています。
3.
取り巻く社会環境の変化があまりに急激であるため、「人間」というシステムの設計変更が追いついていません。システムをチューニングして、互恵性を発動させようとする感度を鈍らせることが必要です。それが人類の進化につながります。
「古賀」(1998)がいいお手本になると思います。
パート1.「既読無視」問題
メール・通話アプリのLINEに「既読無視」という問題があるそうです。
LINE 無用の初老の耳にも、しばしば入ってくるようになりました。
現状把握
検索結果の中から、こちらで「既読無視」問題の概略をつかむことができました。
- 「既読無視」に打ち克つ画像集(石垣りょう)|オモコロ(2013/12/13付)
既読無視に打ち克つべく、「謝る」「抗う」、あるいは反対に返事を求める側として「催促する」の3つの観点から、筆者の方がこしらえた画像を紹介するのが主眼となった記事です。
こちらの記事では「既読無視」を
既読をつけた(読んだ)のに返事をしない相手を、批判するための言葉
としています。そういう行為を指すようです。 ※下線は引用者
なおLINE で「読んだ=既読がつく」なのかは未確認です。知りません。
インターネットで『既読無視』と画像検索してみますと
(画像略)
このとおり退会しろだの犯罪だのと、既読無視した相手を責めたてるための画像が大量に存在しています。
こちらは僕も確認しました。
記事ではこう述べられています。
あなたが返事を催促する立場になったとき、相手に『既読無視!』なんて言葉を使うのはナンセンスです。
他者からの「既読無視」という暴言に耐え、自らは「既読無視」なんて言葉は使わない…それが真の意味で「既読無視に打ち克つ」事になると思うのです。
賛成です。
「既読無視」問題と無縁な自分ですが、助太刀したくなりました。
「既読無視」への素朴な疑問:読まれたなら無視じゃなくね?
ところでこの「既読無視」、僕には矛盾した自家撞着に陥っている言葉に思えてなりません。
「未読無視」ならわかります。読まれていないからです。しかし「既読」なら、無視とは言えないのでは?という疑問がぬぐえないのです。
だって読まれてるんでしょ。
「なのに返事がない」というのは別の問題です。そういう状況ならば「黙殺」とでも呼ぶ方がまだ適切です。
「既読スルー」ならわかる
似た言葉に「既読スルー」というのもあると知りました。こちらならわかります。
読んでそのままスルー、放置プレイってことだからです。矛盾はありません。
「無視=スルー」ではないはず
ですから「無視」と「スルー」の両者は、まったく同一の意味ではないと言えます。
しかし検索結果での用例を一瞥した印象では、「既読無視」と「既読スルー」の意味の差はあまり意識されず、ひとくくりに扱われている様子です。先ほどの記事でも「無視」と「スルー」が同一視されています。こちらの画像でわかります。
別の意味でわかんないです。両者は同値の「無視⇔スルー」なのでしょうか? そうではないはずです。
意味として重複する領域はありますが、はみ出る部分の方が僕には気になります。ただしここではこれ以上述べず打ち切ります。
というのも、この「無視」と「スルー」の同一視が、20世紀のある局面で日本の運命を決定づけてしまうことに気づいたからです。話が大きくなりすぎます。いつか書きたいです。
奇妙な前提
「既読無視」には、ある奇妙な前提が存在することがわかります。それは「相手から返事があって当然」という前提です。
僕から言わせれば、それは原始人の考え方です。僕は原始人ではない(と思っている)ので、そんな義務ないです。
パート2.レシプロシティ(返報性・互恵性)の不具合
「既読無視」に怒る人は、原始人です。考え方が原始人のまま進化していないからです。
そう言える理由を説明します。
reciprocity
「reciprocity」という社会心理学用語があります。「返報性」だとか「互恵性」といった訳語が使われます。
この互恵性、人類の間でそれこそ10万年単位で培われてきた特性です。ざっくり言えば、「人から何かしてもらったら、お返しをする」という発想・行動原理を指します。
以後2つの訳語を使いますが、使用基準は適当です。雰囲気です。
日常での例
要はこういう類の話です。
- 呼ばれたら返事をする
- 出していない人から年賀状が来たら返事を出す
- 香典をいただけば香典返し、お祝いをいただけばお祝い返しする
すべて人類が培ってきた返報性・互恵性のたまものです。
利益・不利益は無関係
返報性に「してもらう」の内容は無関係です。それが自分にとっての不利益であっても「お返しをする」は同じです。
- やられたらやり返す
何倍返しかの倍率を問わず、これもまた人の持つ返報性に由来します。
なぜ互恵性が培われたか
なぜ、人類に「何かされたらお返し」という互恵性・返報性が備わったのでしょうか。簡単に言えば、古来そうすれば人としてうまくいくことが多かったからです。そんな個体が多く生き残ってきたというのもあるかもしれません。
人類史上の「互恵係数」(お返し率)を推定する
ここでひとつの数値を定めます。「互恵係数」とでも名付けておきます。
- 互恵係数=(お返しする機会)/(何かをしてもらう機会)
が定義です。
ざっくり傾向的な話をしますと、人類の互恵係数は、久しく1に近い値を保っていたと思われます。「お返し」が基本です。
係数の下げ圧力:分母(してもらう機会)の増大
ところが近年になって、この値を下げる圧力が生まれています。他人から何かを「してもらう」場面が、爆発的に増加したからです。分母が増えているのです。
先ほど「利益・不利益には無関係」と確認したとおり、SNSでクソみたいなメッセージを受け取るのだって「してもらう」の範疇です。
対応が追いつていない「人」というシステム
ところが、人の認知の仕組みが、まだそれに対応できていません。
深層の部分では「してもらった」変数はいまだ1ビット型のようです。「してもらった」その内容・クオリティを判別できません。毀誉褒貶、あらゆる「してもらった」にフラグが立ちます。
フラグが立つと、これもほぼ自動的に「返報性」「互恵性」サブシステムが発動されます。応分に「お返ししなくては」と、行動が促されるのです。実際には、お返しの必須でない「してもらう」も多く含まれているにもかかわらず、です。
返報性の罠
「互恵係数」にからめて言えば、分母の「してもらう」機会の爆発的な増大に伴い、そこで互恵性を発動させても全体最適につながらないような「してもらう」が相対的に増えている。そんな状況です。ノイズの増大、S/N比の低下とも言えそうです。なのに返報性を発動させ、これまでどおりに互恵係数を1付近に保とうとする。
この心の動きを「返報性の罠」と呼びたいです。
ネットでしばしば見られる「煽りや荒らしをスルーできず応じて炎上」というケースも、こういう「返報性の罠」に陥っています。相手に「してもらった」がため、放っておけないのです。
または、人システムの脆弱性
別の言い方をすると、この罠は「人」というシステムに現存する脆弱性です。
人が備える返報性を利用するノウハウ情報が、ネットには多く見られます。中には「悪用」と言えそうなものも含まれています。脆弱性がつけ狙われています。
取り巻く環境の変化が急すぎて 人間というシステムの設計変更が追いついていない状態です。
運用で対処し、早期の設計変更を促す
いちいち返報性を発動させていては、互いに疲弊してしまう環境になっていることを知っておきたいものです。
意識的に「返報性サブシステム」の働きを鈍らせることで、発動の水準を下げることが肝要です。
「でも」や「しかし」の抵抗には
抵抗を感じるでしょうか。それこそが「返報性の罠」です。
くり返しますが、環境の変化に「人」というシステムの対応が追いついていないのです。幸か不幸か今の世の中、スルーすりゃいいクソみたいな「してもらう」が増えすぎてしまっています。
「互恵係数」が下がることは避けられません。有史以前より久しく互恵係数「ほぼ1」を保ってきたと考えられる人類にとって、直感的に不愉快なことに違いないでしょうが、致し方ないです。
そこは鈍感になっていいところです。
パート3.目指せ「古賀」~華麗なるスルーのすすめ
華麗なるスルーのすすめ
ですから加齢な初老からは、華麗なるスルーを勧めます。
LINE のメッセージごときにいちいち互恵性を発動させる義務はない。それを思い知らなければなりません。返事が遅れようが、他の活動の後回しにしようが、責められても何ら謝罪する必要はありません。
送る側も、それは同じです。
たとえ自分が送ったメッセージの文中で、明確に返信を求めていようとも関係ありません。それに応じるか、返すかどうかは相手次第です。そう心得なくてはなりません。返事がなければ「返事のないのが返事」と受け取ればどうでしょうか。
使用する局面は若干異なりますが、「スルースキル」とか「スルー耐性」というネット用語もあります。そんな華麗なる「スルー」を備えることが、原始人からひとつ進化した人類のあり方だと言えます。
目指せ「古賀」
ここで参照すべきモデルとなるのが「古賀」(1998)です。松本人志さんの映像作品「VISUALBUM “約束”」に収録されているコントです。
板尾創路さん演じる「古賀」が、しばしば「互恵性の法則」を無視するのがポイントです。とらえ直してみると、この「古賀」が人類の進化形に僕には見えます。
まとめ
「既読無視」に怒るのは原始人です。人として進化しましょう。
なお「既読無視」と「既読スルー」は、厳密には違う意味です。同一視はやめましょう。
For more information, (関連書籍・サイト)
最後に、関連書籍・サイトをリストアップしておきます。
手はじめに 『社会的ジレンマ』(山岸俊男, 2000)
互恵性に関しては、山岸俊男さんの次の著書が入り口として適当かなと思います。ただ、2000年発行といくぶん古い本なので、後からもっとふさわしい著書が出ているかもしれません。
私たちの心の中には、コミットメント問題[引用者注:特定の行動を取るように自分自身を拘束することによってのみ解決できる問題]や社会的ジレンマを解決するために必要な、私たちの意識的な行動の選択の自由を束縛するためのメカニズムが備わっている(p.120)
感情は、合理的な判断を無視して私たちに一定の行動を取らせます。(p.120)
これを克服すること、メカニズムや感情の軛から自由になることが、目下の人類に課せられた課題のひとつです。
僕の場合、読んだ当時と比べれば、加齢に伴っていくらかは華麗にできるようになりました。
研究するなら(やはり)北海道大学で
互恵性に関する研究も、国内では山岸さんのいらした北海道大学がその中心地となっているようです。検索結果の上位に出てきました。
これなど、しびれるいい言葉です。その背後に、膨大な研究成果の蓄積を感じるからです。
人間社会の本質は成員間の互恵性(互酬性)と競争であるということは、心理学・人類学を含む社会科学全般及び生物学において広く共有されている見解
出所:21世紀COE 「心の文化・生態学的基盤」(hokudai.ac.jp)
あるいは「人間システム科学専攻 行動システム科学講座|大学院文学研究科・文学部 」のリンクをいくつかたどって拾い読みしただけでも、そそられる話がいろいろ目に留まります。
現代の私たちは人類史上、類を見ない社会を生きています。情報化社会では対面しない人間関係も生まれ、対処する心のしくみを持っていない現代の人間はどうしたらいいのか、わからないことだらけです。
現在、人間社会は様々な問題に直面しています。それらは、生物としてのヒトが進化の過程で身につけてきたものと、現代社会とのズレから生じていることが多いのです。縄文時代から比べても、社会の規模の飛躍的増大、社会に流通している情報量の飛躍的増大、交通手段の発達など、どれもヒトにとっては未知のものばかりです。狩猟採集時代に適応的だった心のしくみをもっている我々は、狩猟採集ではない社会でうまく生きていく心のしくみをまだ身につけてはいません。
(以上、高橋 伸幸 准教授より)
私の研究の目的は、規範と文化という、人間が持つ2つの大きな特徴が進化のプロセスからどのように立ち上がってきたかを解明することです。
進化というコンテクストからみた場合、DNAという遺伝的な情報伝達経路ではなく、社会的な経路を経て伝達される情報の集合が文化です。つまり文化の多様性とは情報が世代を経て人から人へと伝達される中から生まれてくるのだと考えられます。
(以上、竹澤 正哲 准教授より)
まるで、ここからパクって記事を書いたのではと誤解されそうな類似ぶりです。
違います。得られている知見をふまえて考えていくと、そういう結論になるのです。
トンジュセヨ。エン(お金ください。日本円で)
コメント
過激なタイトルつけて構ってほしいのでしょうが
他国の方の価値観を日本人に押し付けてほしくない