誰が悪いのかといえば、私が悪いに決まっています。
『解+』(加藤智大, 2013)
この記事で言いたいこと
世の中「加害予防」がないがしろにされすぎている現状に気づかされました。これはいかんです。
非力ではありますが、これからは、自分ができる分野で積極的に「加害予防」に関与していくことにします。
※写真と本文は関係ありません。
きっかけ
タイムラインでこんなツイートが目に留まりました。
「もちろん、悪いのは(写真をばら撒く、痴漢をする)ほうですが」っていうフレーズよく聞く割には「リベンジポルノしないために」とか「痴漢をしないために」とかの記事は見たことないな~ 【なぜ女性は写真を送ってしまうのか http://t.co/yMvYzym8OZ
— 田房永子 (@tabusa) 2014, 3月 1
言われてみれば、確かにそんな気がします。
現状の著しいアンバランス
この種の記事を、僕はまったくの無意味だとは言いません(読んでませんけど)。
しかしツイートで指摘されているように、こういう類の「被害予防」を指南する情報に比べれば、「加害予防」の観点からの情報はまれです。著しくアンバランスです。
この現状は、なにも性犯罪まわりに限った話でないようにも思います。
なぜ、こんなことになっているのでしょうか。
考察:世の中なぜ「被害予防」ばかりなのか?
このような現状を生じせしめている要因を考えてみました。挙げる基準は思いつきです。
予防を「語る側」「語られる側」の大きく2つに分けると、次の各点に集約できそうです。
- 語る側の「ハードルの高さ」の違い
- 語られる側の「潜在マーケット規模」の違い
以下、補足説明します。
要因分析(1):語る側の「ハードルの高さ」の違い
「被害予防」に比べて、「加害予防」ははるかに語りにくいです。次のような要因があるためです。
- 「被害予防」なら、被害経験のない者でも語れます。「被害を経験していない」という事実から、予防が成功していると主張することもできるからです(それが正しいかはわかりません)。
- 一方、「加害予防」ではそうはいきません。未経験者などの「外野」が簡単に語れるものでないからです。そこを被害予防と同じ感覚でほいほいと語れる者がいたら、だいたいがアホです。
- 「経験なし=語る資格なし」とするのは短絡です。しかしそれでも、外野が語ろうとするならなおさら、対象の加害に対し相当に考え抜くことが求められます。
- さらに、地震や台風などの天災(自然災害)の場合、そもそも「加害予防」を語れる者が存在しません。
「予防」というものの性質からも非対称性が生まれます。
- 当たり前の話ですが、「予防」とは「起こるかもしれない物事を{起こらない|起こさない}ようにする」という発想に基づきます。
- 「予防」によって何を避けているのかを一段上のレベルで言えば、「不幸の発生」です。
- 被害はおしなべて不幸です。不幸でない被害もまた、いったんは不幸の段階を経ているように思われます。
よって、不幸の発生を回避するという目的のもと「被害予防」は語りやすいと言えます。 - 一方、加害が不幸とは限りません。加害者にとって快感、ひいては幸福感をもたらしているケースもあるからです。それらを無視して加害による不幸のみを語るのは、語るにあたっての真摯な姿勢とは言えません。
要因分析(2):語られる側の「潜在マーケット規模」の違い
同じ予防でも、マーケットの規模を比べると「被害予防」よりも「加害予防」の方が圧倒的に小さいです。たとえて言うと、「自動車市場」と「自転車市場」ぐらいのマーケット規模の差があるように思われます。
その要因としては、次の各点が考えられます。
- 一般に、世の中の人は「加害予防」に耳を傾ける準備ができていません。
- 「被害予防」は、まだ「他人事でない」と想像力を働かせて、自分事として受け取りやすいです。
- その半面、「加害予防」を同じように自分事として受け取ることは簡単ではありません。多かれ少なかれ、その作業には内面の苦痛を伴うからです。
- 言い換えると、未経験でも「被害」は想像しやすいですが、「加害」はそうではありません。
- そのため「被害予防」「加害予防」の両面で語っているものに対しても、語られる側が「被害予防」の一面でしかとらえていない可能性があります。
聞きかじりのプロスペクト理論に沿って言えば、「損失回避」を志向する人間の習性も関与しているように思えます。
書籍で例証してみる
そこで語られているのは「被害予防」か「加害予防」か? という観点で、自分の書棚を見直してみました。
やはり、「加害予防」の本は大変少ないです。
その姿勢を明確に打ち出しているのは、『解+』(2013)ぐらいです。この本については以前にこちらで記事にしました。
→早くも発表:2013年に読んだ本第1位は、加藤智大さん『解+』です(2013/07/18)
あと未読ですが、気になっている本として『反省させると犯罪者になります』(2013)だとか。そんなところです。
犯罪から離れると、なお少なく感じます。『バカを治す』(2012)がそう言えるかなという程度です。
なお書籍に関する詳細情報は、当記事の末尾にまとめて記載します。
「被害予防」だけを読んでいる可能性
予防を題材にした世の書籍に「加害予防」の観点が皆無かというと、決してそんなことはないと思います。
サージカルマスクを着用するのにだって、被害予防と加害予防の両側面があるわけです。
そう考え直してみれば、名著のほまれ高い『失敗の本質』(1984, 1991)にしても、「被害予防」「加害予防」の両面で読めるはずです。しかし、「加害予防」的側面からの読み方はされてきていないように思います。何より自分自身がそうであることに気づかされました。
工学面から例を取ると、『失敗百選』(2005)、あるいは『人月の神話』(1975, 1995(原著))、『デザインパターン』(1995, 1999)、『アンチパターン』(1999, 2002)。これらのいずれも「被害予防」「加害予防」の両側面を備えていると言えましょう。
工学分野で考えるならば、被害と加害は表裏一対のものです。もう少し事態を正確に述べると、被害と加害を表裏一対にしてとらえることが、工学的発想であるはずです。
まとめ
「被害」と「加害」は、構造的に非対称性を生みやすくなっていることが確認できました。どうやら多方面で、データベースのレコード分析で言うところの「n対1」の関係になっているようです。
となれば、積極的に「加害予防」に関わっていくことが、よりよい社会を作るための行動指針となり得ます。自分が具体的に何ができるか、そこを引きつづき考えていきます。
何より「被害予防」と「加害予防」という新たな視点の軸を得られたことが、本稿での考察における最大の成果でした。
こちらからは以上です。
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