こんばんは。林修ナイトの時間です。
用件はタイトルのとおりです。出典マニアが重箱の隅をつつきます。
※画像は「絹本着色吉田松陰像(自賛)」(部分, 19世紀後半)ja.wikipedia.org より
あるいは、「林修さん死すべし」と、これ↓みたいに言う試みです。
林修さんの「僕の好きな言葉」
林修さんが、以前テレビ(2013/12/11 テレビ未来遺産)で、「僕の好きな言葉」として次の言葉を紹介されていました。
死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし
いわく、「『いつやるか? 今でしょ!』の究極バージョン」だそうです。
吉田松陰の言葉
探してみると、吉田松陰(1830-1859)の言葉でした。
吉田松陰先生語録47|松陰神社ブログ (2011/05/20付)に
松陰先生が30歳の時、高杉晋作に宛てた手紙でおっしゃった言葉です。
とありました。
そのあたり、恐らくは元のインタビューで林さんも話されていたのでしょう。しかしながら、出典に関する話は放送ではありませんでした。
しかし、文言が違う
ところが、同じページでの「言葉」はこうなっていました。 ※強調は引用者
死して不朽(ふきゅう)の見込みあらばいつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。
「死ぬ」べし となっています。
「死す」「死ぬ」どっち?
ほか検索してみても、「死す」「死ぬ」両方が出てきます。
どっち?
出典マニアの「三ゲン主義」
疑義が生じたら、なるべく原典か、それに最も近いものにあたることです。それが、出典マニア「三ゲン主義」のひとつです。ちなみに、あとの2つはこれから見つけます。
幸いなことに、吉田松陰の場合、大部の全集が出ていることがわかりました。かなりのレベルまで資料が整理されている様子です。
Amazon でも売ってて驚きました。値段もすごい。
貧乏なので図書館だのみ
当然、取り寄せられるほどお金に余裕がないので、公共図書館だのみ一択です。
調べてきた
というわけで、『吉田松陰全集』の収蔵図書館に行く予定ができましたので、調べてきました。
先ほどの、松陰神社ブログ>吉田松陰先生語録47での出典情報が詳細かつ正確だったので、記載箇所は簡単に見つけられました。第八巻です。松陰による手紙が年代順に収められています。
今さらの感想ですが、こうした手紙の類まで後世でもれなく整理して全集にしたくなるほど、慕われていた人なのですね。
(2016/02/19 追記)
国会図書館のデジタルコレクションに、1936年版・1940年版がありました。ありがたいことです。
- 「吉田松陰全集」の検索結果|国立国会図書館デジタルコレクション
1940年版だと、当該の手紙は第9巻の収録でした。
(追記ここまで)
結論:正解は「死ぬ」べし
確認した結果を先に述べておきます。正解は「死ぬ」べし です。
林さんの言っていた「死すべし」は、資料に照らした文言の正確さという点から言えば、間違いです。
林修さん死すべしです。
『吉田松陰全集』からの引用
後ろも含め、引用しておきます。※太字は引用者。
死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし。
僕が所見にては生死は度外に措(お)きて唯だ言ふべきを言ふのみ。
出所:『吉田松陰全集』第8巻(1972, 1986)p.368
前からは、こうつながる
上で引用したくだりに至るまでの部分も、同じく『吉田松陰全集』から引用しておきます。
当該のくだりは
貴問に曰く、丈夫死すべき所如何。
と始まります。高杉晋作の「男たる者どう死ねばいいか」みたいな質問に答える格好です。
松陰はしょっぱなに
僕去多巳来、死の一字大いに發明あり、
としており、「死が前よりも深くわかった」という調子での回答です。
以下に、ポイントだけ抜粋します。
死は好むべきにも非ず、亦惡(にく)むべきにも非ず、道盡き心安んずる、便(すなわ)ち是れ死所。
世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。心死すれば生くるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり。
又一種大才略ある人、辱(はじ)を忍びて事をなす、妙。
又一種私欲なく私心なきもの生を偸(ぬす)むも妨げず。
でもって、このまとめが
死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし。
であるわけです。
出所:『吉田松陰全集』第8巻 pp.367-368
関連情報
関連情報も記しておきます。
この手紙が書かれたのは、安政六年(1859年)のことです。同じく『吉田松陰全集』によれば、
高杉晋作宛 七月中旬 松陰在江戸獄/高杉在江戸
という手紙だとのことです。
吉田松陰マジリスペクトなら「死ぬべし」
後から見つけましたが、吉田松陰の教え(松陰語録)|吉田松陰.com でも「死ぬべし」でした。
どうやら「松陰マジリスペクト」なところは、「死ぬべし」となっているようです。
残念な林修さん(出典マニア的に)
この調査結果には、ちょっとがっかりです。
たまたま「死すべし」と言い間違えただけかもしれませんけれど、それでも「僕の好きな言葉」と言っておいて間違えるかね。林さんってもっとできる人だと見込んでいましたが、そのレベルどまりかぁ。
というのが、出典マニアとしての率直な感想です。
些細な違い
とはいえ、「死ぬ」が「死す」になっても、さして意味が変わるわけでもありません。両者をどう使い分けるのが適切かも、正直よくわかっていません。言葉としては、ほとんど同じ機能を果たしていると言って差し支えないレベルであるとは思います。
手持ちの電子辞書(新漢語林)で「死」を引くと、字義の表記が「し-ぬ」「シ-す」となっていました。「死す」は音読み、「死ぬ」は訓読みということになります。言える違いはそれぐらいです。
結論として、「死ぬ」が「死す」になると意味としてどう違ってくるか、よくわかりません。
引用は正確に!
それでも僕は出典マニアなので、引用がいい加減でテキトーな人、出典の扱いが軽い人は、どうしても人としての評価ランクが下がります。また、どういうわけなのか、他人の名言を好んで使いたがる人に、出典マニアから見てランクの低い人が少なくないのも傾向的に感じています。
出典マニアから重ねて申し上げます。
引用は正確にね!(ご利用は計画的に、みたいな感じで)
むすび:出典マニアができること
むろん、これは出典マニアの価値観でしかなく、他人に求める普遍的な規範でないのも承知しています。
出典を蔑ろにする向きを、ことさらに排除も攻撃もするつもりはありません。先ほどの松陰の文句と同じく、
僕が所見にては生死は度外に措(お)きて唯だ言ふべきを言ふのみ。
そして失望するのみです。
こちらからは以上です。
(2014/05/30追記)
直って?いました。
「林先生の痛快!生きざま大辞典」#03【空飛ぶライダー…恐怖心に立ち向かう力】(TBS系 2014/05/06 OA/毎日放送 2014/05/22深夜 OA)では、
「死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし」と言われていました。
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