マーク・ピーターセンさんの『実践 日本人の英語』(岩波新書)を読みました。
私はこの本を読み、あれこれ思い巡らせた結果、英語を一切使わなくても「英語力は、日本語だけで鍛えられる」ことが分かりました。
発行側にそんな意図はない可能性もありますが、書名の本当の意味も、そこにあります。
なぜそのような結論に至ったのか、次の4つのことを順を追って書くことで説明します。
- この本の特徴
- この本を読んで再確認したこと
- 新たに知らされたこと
- そしてわかった:英語力は日本語だけで鍛えられる
この本の特徴
この本の特徴は、
- 英語の語法について
- 日本語で
- 英語を母語とする著者が
- 日本語話者の発想の癖と対比して
- 半ば偏執的ともいえる周密さで
書かれていることです。
世に掃いて捨てるほど出回る英語本のうち、上の5つ全てに当てはまる本はまれです。1988年からのロングセラーである『日本人の英語』以来、マークさんの独擅場と言っても過言ではありません。
書名に関する疑問
書店で「待望の実践篇登場!!」とする帯の文句が目に入り、ここへきてまさか続編が出るとは!と“ジャケ買い”した私ですが、「実践」と銘打った書名には、引っかかりました。「日本人の英語」を実践しちゃったらまずくありませんか? と思ったからです。
本の内容に照らすと、『日本人の英語』というのは、
「日本人の(英語話者にとっては奇怪で容認しがたい)英語」
という意味に取るのが妥当でしょうから。
そのことはさておいて、通読してあらためて感じたことがあります。
再確認したこと
それは、「英語というのは、きわめて理屈っぽい言語である」ということです。
本書でも、語句レベルですと冠詞・名詞の単複・接続詞・副詞を、文章レベルですと時制をトピックとして取り上げて、これらの語句がどういう理屈で選ばれるか、なぜそうでないといけないか、そうでなければどんな意味に読まれてしまうか、が書かれています。
理屈っぽい例
出てきた文例をひとつ挙げます。
The kiosk sells newspaper.
この文の意味は、「そのキオスクは新聞を販売している」ではないのです。その解説を読むと、あらためて、実に理屈っぽい。
(タネ明かしは本記事の最後で)
新たに知らされたこと
本書によって新たに知らされ、強く印象に残ったことが1つあります。それは、「英語の世界では、無意味、無価値な言明から始まる言説に対して(日本語の感覚からすると)異様に厳しい」ということです。
ただしこれは、英語そのものの性質というよりも、英語でものを言うときの作法に分類されることなのかもしれません。
そこまで言う?
本書でマークさんは「日本人の大学生が書いた」とする短い文章を、「反面教師」として2つ取り上げています。それぞれ、冒頭の文章だけを引用します。
〈文例A〉 Many people keep pets.
〈文例B〉 Famous wild animals live in some countries of the world.
この2つの文例に対して、マークさんは
ごく当たり前の,言っても言わなくてもいいことから話が始まっている.(p.189)
誰にも教える必要のない,当たり前すぎる話から始まっている.(p.190)
「英語圏人」の読者は「誰のためにこんな当然のことを指摘しないといけないと思っているのだろう?(略)当たり前すぎることを書くな」と思うかもしれないのである.書き手の印象を損ねてしまいかねない(pp.207-208)
と、けちょんけちょんです。このような文に遭遇したときにわき上がったであろう彼の苛立ちが、こちらにも伝わってきました。
英文では、トピックセンテンスとして段落の最初の文が重視されますから、なおさらイラッとくるのでしょう。理屈として話は分かりますが、私はまだ実感できるレベルにはありません。なぜなら日本語では、このような文章の始まり方は決して珍しくないからです。だからこそ、本書で言及されているのでしょうけれど。
一方日本語では
イライラする書き出しだと英語圏人に指摘されても、しかし日本語を母語とする者にとってみれば、むしろ違和感を覚えることの方がかえって難しいのではないでしょうか。誰からも異論が出そうにない、当たり障りのないところから話を始めていくというのは、日本語世界におけるひとつの導入テクニックとして存在するからです。
たとえばの話ですが、
えー、ペットを飼う方が多くいらっしゃいます。わたくしのお隣でも猫ちゃんを飼っておりまして、時々うちの庭にも入り込んで女房に餌をねだっていたりもするんですけども、なかなか可愛いもんであります。えー、ですが、こういうペットですと、ちょいと困りものでございますね。「もしも、こんなペットがいたら」
などと、いかりや長介さんが言ってからコントが始まったとしても、何ら問題だと感じません。
そしてわかった:英語力は日本語だけで鍛えられる
英語力は、日本語だけで鍛えられます。
英語のように日本語を書く。
この実践を重ねることで訓練すればよいのです。
具体的には、
- 当たり前でない主張・意見を述べる。
- 当たり前でない主張・意見をより効果的に伝えるには、どのような論理構造、流れとするのがよいかに注意を払う。
- 個々のセンテンスの役割を明確にする。「役割」とは、たとえば主張、理由、補足説明、あるいは事実提示、例示、意見表明などである。
- 役割を明確にした個々のセンテンスを適切な語句でつなぎながら、論理構造に沿って文章を組み立てる。
というような作業を進めることになります。
英語力のなかには、言語に依存しないものがある
先ほど私は、英語圏人が無意味、無価値な言明を異様に嫌うというのは、英語という言語そのものの性質というよりは、英語でものを言うときの作法に分類されることなのではなかろうか、ということを書きました。
であるなら、英語でものを言うときの作法は、「英語」という言語そのものから切り離すことができます。言語そのものに依存しないのだから、訓練を重ねて作法を身につけるのに英語を使う必要はありません。
日本語を使って、英語でものを言うときの作法に沿って書けばよろしい。英語そのものは必須ではありません。
それが「実践 日本人の英語」の本当の意味です。
英語に依存する英語力は、後回しでいい
むろん、単語や文法を知らずに英語を書いたり話したりすることはできません。しかし、英語でものを言うときの作法に沿ってアウトプットを鍛えておけば、英語そのものを使う必要が生じた際にそれらを追って鍛えることにしておいても、決して遅すぎることはないように私には思えます。なぜならある文章が英語の作法に沿って書かれているのであれば、たとえそれが日本語で書かれていたとしても、その1点を除けばその文章は既に十分英語っぽいに違いないからです。
きちんと英語の作法に沿った文章を書ける書き手であれば、英語を使ってものを言わなければならないときがくれば、同じ作法に沿って今度は英語を紡ぎ出していくだけでよいはずです。そのようにしてできあがった英文は、たとえ英語そのもの、たとえば本書にあったような冠詞や名詞の数、形容詞や副詞の選択が少々拙かったとしても、英語圏人に理解されやすいのではないでしょうか。もちろん、英語に依存する英語力が不十分なために、意図が正しく伝わらない致命的なミスを犯してしまう可能性もあります。しかし、英語でものを言うときの作法に沿う訓練を重ねていれば、「英語」が問題になる段階が来たときには、英語そのもののルールや作法についても敏感にならざるを得ないはずです。そのような書き手なら、修正能力も高いはずだと言えるのではないでしょうか。
一見おかしいように思えた『実践 日本人の英語』のタイトルも、本意はそこにあるのでしょう。ただ、この解釈は単なる牽強付会の説にすぎず、発行サイドとしては、「続」も前にタイトルとして使ってしまっているし、半ば苦しまぎれで「実践」でいくことにしたのが実情、という可能性も大いにありえるのですけれど。
蛇足:普遍と特殊のあいだ
2つ蛇足を書きます。
気質の問題もあるかも
とはいえ英語圏人のすべてが、英語使いとしてここまで理屈っぽく、かつ無意味な言説で始まる文章をここまで嫌悪するとまでは一概に言い切れず、留保する余地がある気もします。
本書の特徴の1つである半ば偏執的ともいえる周密さは、著者であるマーク・ピーターセンさん自身の気質に負うところも大きいように思えるからです。アメリカに生まれたのに大学院で近代日本文学を専攻したあげく日本くんだりまで来て大学教授をされているわけですから、ヘンな人です。
巻末のプロフィールにも
東京工業大学にて「正宗白鳥」を研究.
ってあったけど、なにそれ。おいしいの?
タネ明かしの解説
最後に、
The kiosk sells newspaper.
という英文は「そのキオスクは新聞を販売している」という意味にはならないことを、『実践 日本人の英語』の記述に基づいて解説します。
冠詞、またはmy、that など冠詞に代わるものが何も付かない単数形の名詞は、「数えられないもの」を意味します。したがって、上の例文を正確に読むと「新聞紙を販売している」という意味になってしまいます。そのキオスクが素材としての紙を売っているわけではありますまい、ということで、newspapers と複数形にしてはじめて「新聞」の意味になります。
「元から新聞紙としての値打ちしかないかも」と、newspapers とすべきところを皮肉って、newspaper とあえて無冠詞単数形を使ってみるのも乙かもしれません。
それでは。
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