いつの頃からでしょうか、ネットを見ていますと、本の紹介をしている文などで
心に刺さる言葉がたくさんありました。
みたいなものいいを目にするようになりました。前後を読むと、書き手の方は特に不愉快になっているわけではなく、むしろその本をおすすめしているようです。
これがいっときだけの流行で終わるか、次世代まで残るかは分かりませんが、「刺さる」の新しい用法が生まれています。
「刺さる」という言葉の用法について考えてみました。
刺さるの辞書的意味
「刺さる」の広辞苑での説明は、「先のとがったものが突き立つ」です。
何が刺さるのか
何が「刺さる」のか、どういうものが「刺さる」と言われているかを改めて確認します。
日本語コーパス少納言から用例を拾ってみました。複合動詞の「突き刺さる」は除いています。
「先のとがったもの」では
- 針
- 串
- 矢
- とげ
- (魚の)骨
- フォーク
形のないものでは
- 視線
- 煙
がありました。
また、少々毛色の違った用例として、
- イワシが刺し網に刺さる
- 180(自動車)がガードレールに刺さる
というのもありました。
「刺さる」考 その1
上の用例でも分かるとおり、刺さるものというのは、異物です。
異物が刺さるというのは、刺さった側に取ってみればイヤな状態です。
自分の身であれば特に、何かが刺さるというのは不快な出来事で、刺さった異物をなんとしても排除したくなるようなもののはずです。
「刺さる」考 その2
刺さるものが形のない「視線」「煙」であっても、刺さる側にとっては異物であり、不快で排除したいものであるという性質は共通しているように思います。
たとえばふつう、ステージに立つアイドルに、集まったファンの視線が「刺さる」ことはありません。もしあるのだとすれば、そのアイドルに不祥事の噂があるだとかで、視線が「刺さる」性質を帯びる文脈が存在することになります。
心に言葉が刺さったら
心というのも、人の体を解剖して「これが心です」と取り出すことはできないという意味で実体のないものです。もしも心が目に見えるのであれば、心に言葉が刺さった状態というのは、周囲からはとても平穏に暮らしを送れているように見えないのではないでしょうか。ちょうど体に矢が刺さったカモのように。
ところが、肯定的に「言葉が心に刺さる」人にとっては、刺さるという事態がなんとも軽いことのように思われます。
刺さったあと、刺さった言葉はどうするのでしょう。
いくつも言葉の刺さったいびつな心のまんまで、一生過ごされるつもりなんでしょうか。
となんくせのひとつもつけたくなります。
刺さってしまう心の(耐えられない)軽さ
そう考えますと、この用例での「刺さる」というのは、単にその場だけの感興を述べているにすぎず、まるで刺さった言葉が次の瞬間には溶けてなくなってしまっているかのような、軽佻浮薄な心性からの発言と受け止めざるを得ないのであります。
「刺さりました!」と何のてらいもなさげに使われているのを見て、今日も私はにやにやしています。
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