こんにちは。
一部で偏った情報が出回っているようなので、論点を整理しておきます。
要旨:Executive Summary
「カモシカのような脚」は細いのか、それとも太いのかという問題があります。その答えは「まだ決まらない」です。
審議を重ねるとどちらが正しいかが決まる、という意味ではありません。「まだ決まらない」が答えです。
掲題における設問条件下では、一律にどちらか片方が正しくて他方が間違いというのは生じません。文脈ごとに両者それぞれが正しいケースが存在します。
よってこれは「シュレディンガーの猫」と同じく、量子力学的な発想でとらえるべき問題です。
『和漢三才図会』(a. 1713)での「カモシカ」表記
「カモシカのような足」でアクセス15倍
このあいだ、数日間だけこちらの記事へのアクセスが急増しました。
- 「カモシカのような脚」の元祖はブッダであった(2013/05/22)
だいたいが「カモシカのような足」で検索しての訪問でした。10月29日の夜に突出して増え、3日間ほどで収束しました。
直前の3日間と比べると、およそ15倍のPVです。といっても元が零細なので、絶対数は大したことないですが。
Google ウェブマスターツールでも、当該期間に「カモシカのような足」の検索ボリュームが増え、「スパイク」を形成していたことがわかります。スクリーンショットを貼っておきます。
検索クエリ詳細「カモシカのような足」(Google ウェブマスター ツールより)
「ダレトク!?」な発信
探ってみると、原因はこのテレビ番組のようでした。
有吉弘行のダレトク!?(関西テレビ系 2013/10/29 23:00-23:30 OA)
番組ページにあった、過去のダレトク > 2013年10月29日放送から引用します。※下線は引用者
最初のデマは、「スラッとした美脚はカモシカのような脚というのはデマ!?」。(略)事実を確かめるべく調査員が動物園へ!実際のカモシカを見ると、美脚に例えられるには程遠いビジュアルに一同仰天。デマの原因を究明すると、驚きの新事実が判明する。
番組を見ていませんのでまったくの想像ですが、
- 「カモシカのような脚」とは、実は「羚羊(レイヨウ)」のことだった
あたりを「驚きの新事実」と称しているのではないかと推察します。
だとすれば取り上げている情報が部分的すぎますし、それを根拠に一般的な理解をデマと断じることも正しくありません。
断片的な情報で惑わされないでほしい
「カモシカのような脚」の元祖はブッダであったでは、この比喩の起源は、ブッダの身体に備わるとされる特徴「三十二相」の1つである「伊泥延腨相」ではないかという説を述べました。
そちらでは、「カモシカのような脚」が美脚か否か、どんな脚かについては言及していません。当該記事での本題でないのに加え、一意に決まるものではないという見解に至ったからです。
この機会に当方の見解をまとめておきます。
この記事での呼び分け方
「カモシカ」ではどの動物を指すかがあいまいになってしまうので、以降この記事では、特定したいときには別の呼称を用いて呼び分けることにします。
セロー
ニホンカモシカを「セロー」と呼びます。由来は英単語のserow です。
こちらがセローです。(出所:www.city.tonami.toyama.jp)
ちなみに同じ名前のオートバイもあります。
セロー250(出所:www.yamaha-motor.co.jp)
アンテロープ
そして、下のタイプの羚羊(画像はインパラ)を「アンテロープ」(antelope)と呼びます。
アンテロープ(出所:http://www.kcc.zaq.ne.jp/dfbgx603/newpage17.html )
問題を分けてみる
問題を次の3つに分解し、それぞれの見解を述べます。
1)「カモシカのような脚」というときの「カモシカ」とは、どの動物のことか?
見解1:
この比喩表現が「伊泥延腨相」に由来すると考えられる点からすると、僕の答えは「セロー」です。
しかし、「アンテロープ」をイメージすることが間違いとは言えません。「カモシカのような脚」という表現が、仏教の伝来・伝播とは別ルートで持ち込まれ普及した可能性があるためです。
いずれ調査したい項目の1つです。
2)「カモシカ」の脚は細いのか?太いのか?
見解2:
セローの場合、イメージの世界では「細い」ですし、しっかり観察すれば「太い」と言えるでしょう。どちらも間違っていません。評価の問題です。
アンテロープであれば、「細い」とするのが妥当でしょう。論拠によって「太い」可能性もありえますが、まれだと思います。これも究極には評価の問題です。
3)「カモシカのような脚」は、細いのか?太いのか?
見解3:
見解2を引き継ぐ格好です。
「カモシカ」をどの動物としてイメージするかにもよりますが、究極的には「細い」「太い」どちらもありえます。比喩の上ではどちらも間違っていませんので、決まりません。
個人的「カモシカのような脚」変遷史
「カモシカのような脚」に対する、僕のイメージの変遷を示しておきます。
1.素朴な理解(?~2013年)
いつ頃この言葉を覚えたかは記憶にありませんが、それ以来の「カモシカのような脚」に対する僕のイメージは久しくこうでした。
- カモシカ=セロー
- 脚=細い
画像付きでくり返すと、こうです。
↑ 細い
思うに、世の中の人の大半は、このパターンで理解しているのではないかと推察します。
2.「カモシカ=レイヨウ」説の伝来(2013年5月ごろ)
このような説を知りました。
- カモシカ=アンテロープ
- 脚=細い
↑ 細い
一部の辞書にもこの旨の説明があります。
3.リサーチを経ての見解(2013年5月~現在)
自分なりの調査研究を経て、現在はこういう見解に落ち着いています。
- カモシカ=セロー
- 脚=細い または 太い
↑ 細い または 太い
しかしながら、2.の見解を排除するものではありません。
いずれの立場からも、他説をデマと断じることは、間違っています。
その理由を以下で説明していきます。
江戸時代、羚羊もカモシカ
現在の視点からすると、ある意味で罪深い史料を紹介します。
江戸中期に編纂された「百科事典」である『和漢三才図会』を見ますと、カモシカの項に「羚羊」の漢字表記が見えます。漢語由来なのでしょうね。
出典:九大デジタルライブラリー 和漢三才図会「獣類」(a. 1713)
恐らく江戸時代当時の日本人にとって、アンテロープは未知の生物だったと思われます。『和漢三才図会』には麒麟など想像上の生物も載っていますが、アンテロープらしい獣・家禽は見当たりませんでした。
なお「羚羊」というのは、現在の用法と同じく、個別のある一種を指すのではなく、似たような種の一群を意味する名称だったものと推測しています。
このあたりの経緯も、上の「問題1」、すなわち「カモシカ」が指す対象について、話者ごとに認識が違い混乱を生んでいる一因のように思われます。
「解剖学的見地から」は、ためにする議論
また、解剖学的知見をベースとし、ヒトとカモシカとの脚および足の骨格の違いに基づき、細い太いを論じる議論もあります。
カモシカのものではありませんが、参考となる図を添付しておきます。
哺乳類の歩様3型 出所:『馬の医学書』(日本中央競馬会競走馬総合研究所 編, 1996)p.65
この類型で言えば、鯨偶蹄目であるカモシカも、ウマと同じ「蹄行型」であり、地面と接触する部分は「指先」だけです。人間で言えば、バレリーナみたいに爪先立ちをしている状態ですね。しかも指2本です。
そして、図中に「かかと」の場所が示されているとおり、人で言えば「すね」に見える部分が、解剖学的には足の甲に相当します。
こうした知見に基づいて、「カモシカの足の○○は人間で言えば××に当たるから…」うんぬんという議論も一部にはあります。
しかしこれは、ためにする議論と評価せざるを得ません。なぜなら通常、人は「カモシカの脚」を人の基準で見ている。すなわち、人と同じ骨格構造と見なして認知していると考えられるからです。
まず、こうしたことを知らなければそのような観点は取りようがありませんし、たとえ知っていても、たとえばそこが人間で言えば「足の甲」であると知っていても、下腿部であるかのように見てしまうものです。
よほどの専門家でもない限り、一拍置かなければ「骨格が違う」という知識を基盤にした認識はできないのではないでしょうか。
「自分と同じ」ものとして見るのが、人の素朴かつ自然な基準だと言えるように僕は思います。(これも基準は「自分」です)
そもそもの視点が違う
さらに言えば、人が、その脚の「細い」「太い」を判定するのに人とカモシカを見る場合、そもそもの視点が違います。
視点が違うことは、試しに「人間」と「カモシカ」、それぞの全身の絵を描いてもらえば、わかるはずです。
実際に実験していないので想像でものを言いますが、大半の人は
- 人は正面から
- カモシカは横から
見た絵を、描くのではないでしょうか。
人の場合は、正面からでも側面からでも、見た目の脚の太さは、大して違いはありません。
一方、カモシカの場合はそうではありません。
よくよく観察すればずんぐりしていて「太い」セローの脚も、横から見た胴体の幅に比べれば十分に「細い」です。
まとめ:「シュレディンガーの猫」に同じ
以上から、「カモシカのような脚」がどのような脚かは、一意には決まらないと言えます。
取りうる状態が複数あり、決まらない状態にあるものを、決まらない状態のままでどちらかが正しいと言おうとするから、無理が生じています。言わば「シュレディンガーの猫」と同じパラドックス構造です。
僕自身はこの表現にまったくピンと来ませんが、そう書けばそれだけで伝わる層がいらっしゃるようなので書きました。
参考資料
量子力学に関する僕の知見はゼロでしたので、すべてこちらの文章を頼りました。
「重ね合わせ」とは何か?(hp.vector.co.jp)
量子力学に「重ね合わせ」の概念は不要と主張する文章でした。抜粋します。※太字は引用者
「未決定状態」というのは、量子力学だけにあるわけではなく、どんなところにも見出される。たとえば、回転するコイン (※引用者補:が「表」か「裏」か)は、単に「未決定状態」にあるだけであって、「重ね合わせ状態」にあるわけではない。だから、いちいち「重ね合わせ」なんていう概念を使うべきではないのだ。
「重ね合わせとは未決定状態である」という説明は、間違いではないが、妥当ではない。むしろ、「重ね合わせなんていうものは、もともとないのだ。未決定状態というものがあるだけだ」というふうに認識するのが正しい。
こちらからは以上です。
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